キケロの名言と暮らし ── 原文は何節?
友情は、よいときをいっそう明るくし、つらいときを分け合って軽くする。
Nam et secundas res splendidiores facit amicitia, et adversas, partiens communicansque, leviores.『友情について』22
ラエリウスが、友スキピオとの友情をふり返って語る形の本で、この句もラエリウスの言葉です。
先に書いた『老年について』と同じく、友アッティクスにあてて書いた、と本のはじめにあります(4)。
「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」という言い回しは、1625年のベーコンの随筆にあります。
考え方友情とは、神々のことも人のことも、好意と思いやりをもって心をひとつにすることだ、と同じ本で言っています(20)。友情の節へ
暮らしキケロ自身も、友アッティクスにあてた手紙を、16巻ぶん残しています。友の節へ
キケロの年表(17の出来事)
満43歳
執政官をつとめる
前63年・満43歳
満43歳は、前63年1月3日から前62年1月2日まで
| 年齢 | いつ・何をした |
|---|---|
| 満0歳 | 前106年1月3日 アルピヌムで生まれる ゲッリウス『アッティカの夜』15.28.3・『アッティクス宛』7.5.3・『法律について』2.3・国立国会図書館の典拠 1月3日は、ユリウス暦が始まる前の、ローマの暦の日付です。 |
| 満18歳 | 前88年 ローマに来た哲学者フィロンに、夢中で学ぶ 『ブルートゥス』306 年は、本人が書いた、執政官スッラとポンペイウスの年です。 |
| 満26歳 | 前80年 はじめての公の裁判で、ロスキウスを弁護する 『ブルートゥス』312・ゲッリウス『アッティカの夜』15.28.3 ゲッリウスは、執政官の年を数えて「27歳」と書いています。満で数えると26歳です。 |
| 満27〜29歳 | 前79〜前77年 アテネで6か月学び、アジアとロドスをめぐって、2年後にローマへ帰る 『ブルートゥス』314〜316 年は、裁判で2年話してから出発し、2年後に帰った、という本人の書き方から数えたもので、推測を含みます。 |
| 満31歳 | 前75年 シチリアで財務官をつとめ、アルキメデスの墓を見つける 『ブルートゥス』318・『トゥスクルム荘対談集』5.64〜66 年は、本人が書いた、同じころのコッタの執政官の年から決めています。 |
| 満36歳 | 前70年 シチリアの人々のために、もとの総督ウェッレスを訴える 『ブルートゥス』319 翌年の執政官ホルテンシウスと、2人とも選ばれたばかりの年だった、と本人が書いています。 |
| 満41歳 | 前65年 息子マルクスが生まれる 『アッティクス宛』1.2.1 年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満43歳(前63年1月3日から)はここ | |
| 満43歳 | 前63年 執政官をつとめる 『ブルートゥス』323 なれる年になってすぐの年で、ホルテンシウスの6年あとだった、と本人が書いています。 |
| 満48歳 | 前58年 ローマを離れ、追放される プルタルコス『キケロ伝』31〜32・『アッティクス宛』3.1 年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満49歳 | 前57年8月5日 ブルンディシウムで娘トゥッリアに迎えられ、ローマへ帰る 『アッティクス宛』4.1.4〜5 8月5日は、トゥッリアの誕生日でもありました。年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満51歳 | 前55年 『弁論家について』を書き上げる 『アッティクス宛』4.13.2 同じ手紙に、2度目の執政官をつとめていたマルクス・クラッススの出発が書かれていて、その年だと分かります。 |
| 満55歳 | 前51年7月31日 総督として、キリキアのラオディケイアに着く 『アッティクス宛』5.15.1 この日から1年を数えてほしい、と友に書いています。年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満57〜59歳 | 前49〜前47年 ポンペイウスの側へ移り、のちにブルンディシウムで待ち、前47年にカエサルに迎えられる プルタルコス『キケロ伝』37〜39 年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満61歳 | 前45年 娘トゥッリアが亡くなり、自分をなぐさめる本を書く プルタルコス『キケロ伝』41.5・『アッティクス宛』12.14.3 年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満62歳 | 前44年 息子にあてて『義務について』を書く 『義務について』1.1・『アッティクス宛』16.11.4 年は、手紙の校訂本(1900年代はじめ)が、手紙の中身から決めた年です。 |
| 満62〜63歳 | 前44〜前43年 執政官アントニウスに反対する演説『ピリッピカ』を行う 『ピリッピカ』 校訂本では、14の演説にまとめられています。年は、校訂本が演説の中身から決めた年です。 |
| 満63歳 | 前43年12月7日 フォルミアエの近くで亡くなる タキトゥス『弁論家についての対話』17.2・セネカ(父)『説得演説』6.17 日付は、前45年に始まったユリウス暦の日付です。 |
年齢は、前106年1月3日の誕生日から数えた満年齢です。年だけが分かる出来事は、その年の1月3日のあとの年齢で書いています。
前45年より前の日付は、ユリウス暦が始まる前のローマの暦の日付です。カエサルのころには、その暦は季節とずれていて、カエサルが改め、改めた年は15か月の年になりました(スエトニウス『カエサル伝』40)。
ゲッリウスは前80年の弁護を「27歳」、プルタルコスは前43年を「64年目」と書いています。このページの満年齢では、26歳と63歳です。
「22」は本の節の番号、「1.23」は巻と節の番号です。原文の字は、出典の行の版の頁の画像で確かめ、訳はこのページで作りました。対話の形の本の言葉は、本の中の人物が話しています。
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1問目 / 全3問
キケロは、前1世紀のローマで、弁論家として裁判で話し、国の役目をつとめ、たくさんの本と手紙を書いた人です。考え方の4節と暮らしの12節に、原典のどこかと原文の言葉をそえています。
友情 ── 分け合うと、軽くなる
『友情について』で、ラエリウスは、友情とは、神々のことも人のことも、好意と思いやりをもって心をひとつにすることだ、と言います。
そして、友情は、よいときをいっそう明るくし、つらいときを分け合って軽くする、と話します。
詩人エンニウスの「確かな友は、あやういときに見分けられる」という句を、ラエリウスは正しいと言っています。
『友情について』64 Ennius recte: amicus certus in re incerta cernitur
老い ── 毎日、何かを学び足す
『老年について』で、年をとった大カトーは、詩人スタティウスの句を引いて、あとの時代の役に立つ木を植える人のことを話します。
ソロンが、毎日何かを学び足しながら年をとると詩で語ったことにふれ、自分も年をとってからギリシアの文学を学んだ、と話します。
同じ節で、ソクラテスが竪琴を習ったと聞いて、自分も習いたかった、とも話しています。
『老年について』26 Et ego feci, qui litteras Graecas senex didici
ソクラテスのことは、ソクラテスの名言と暮らしで見られます。
正しさ ── 約束と、みんなのもの
『義務について』で、キケロは、人はたがいに役立つために生まれた、というストア派の考えを紹介します。
そして、正しさの土台は信義、つまり言ったことと約束したことを守りとおすことだ、と息子に書きます。
『国家について』のはじめでは、徳は、使うことの中にすべてある、と書いています。
『国家について』1.2 virtus in usu sui tota posita est
言葉 ── 語り合い、心を耕す
『弁論家について』で、クラッススは、人が獣にいちばんまさるのは、語り合い、思うことを言葉にして表せる点だ、と話します。
『トゥスクルム荘対談集』では、心を耕すのが哲学だ、と書いています。
同じ本で、ソクラテスは哲学を天から呼びおろし、町や家に住まわせた、とも書いています。
『トゥスクルム荘対談集』2.13 Cultura autem animi philosophia est
名前 ── キケロは、ひよこ豆
プルタルコスによると、キケロという名は、ラテン語でひよこ豆のことを言う「キケル」から来ています。
役目につくころ、友人に名前を変えるようすすめられると、この名を名家の名より有名にしてみせる、と答えたと伝えられます。
シチリアで財務官だったころには、神々にささげる銀の器に、名の3つ目の代わりに、ひよこ豆を彫らせました。
プルタルコス『キケロ伝』1.2 κίκερα γὰρ οἱ Λατῖνοι τὸν ἐρέβινθον καλοῦσι
生まれ ── アルピヌムの家と、家族
キケロは、アルピヌムの家のある土地を、自分と弟クィントゥスのほんとうの故郷だと書いています。
父は体が弱く、この家で、ほとんどの時を学びと本とともに過ごした、と書いています。
母はヘルウィアといい、弟は手紙に、母が、からのつぼにまで封をしていたことを思い出して書いています。
『法律について』2.3 haec est mea et huius fratris mei germana patria
ユリウス暦から今の暦への切りかえは、空白の10日間で見られます。
学び ── 弟といとこと、同じ先生に
少年のころ、弟やいとこたちといっしょに、名高い弁論家クラッススが認めることを、クラッススと同じ先生たちから学びました。
父は、息子たちの学びにとても熱心だった、と書いています。
前88年には、ローマに来た哲学者フィロンに、自分のすべてをあずけるように夢中で学んだ、と書いています。
『ブルートゥス』306 totum ei me tradidi
留学 ── 細い体と、2年の旅
若いころのキケロは、とてもやせて体が細く、それでも全身の力で声を張り上げて話していた、と書いています。
友人や医者に、裁判で話すのをやめるようすすめられると、話し方を変えようと、アテネで6か月学び、アジアとロドスをめぐりました。
2年後に帰ったときには、ほとんど別人のように変わっていた、と書いています。
『ブルートゥス』316 Ita recepi me biennio post non modo exercitatior sed prope mutatus.
シチリア ── いばらの中の、アルキメデスの墓
前75年、シチリアで財務官をつとめたとき、シラクサの人々も忘れていたアルキメデスの墓を、いばらの中から探し出しました。
墓の上に球と円柱がのっている、という詩を知っていたので、球と円柱の形のある小さな柱に気づいたのです。
帰り道のプテオリでの人とのやりとりから、ローマの人には耳より目に届くほうがよいと考え、それからは毎日、人の前に出るようにした、と話しています。
『トゥスクルム荘対談集』5.65 animum adverti columellam non multum e dumis eminentem, in qua inerat sphaerae figura et cylindri
アルキメデスが円周率を追いかけた話は、アルキメデスの円周率で見られます。
妻と息子 ── 「わたしの光」と、アテネの息子
妻テレンティアにあてた手紙が24通残り、ローマを離れていたころの手紙では、妻を「わたしの光」とよんでいます。
前65年に生まれた息子マルクスは、のちにアテネで学び、先生の哲学者クラティッポスと毎日のように過ごしたと、手紙に書いています。
テレンティアとはのちに別れましたが、プリニウスは、テレンティアが103歳まで生きたと書いています。
『縁者・友人宛書簡』14.2.2 mea lux, meum desiderium
友 ── アッティクスと、16巻の手紙
生涯の友アッティクスにあてた手紙は、16巻にまとめられて残っています。
アッティクスの伝記を書いたネポスは、キケロが、弟クィントゥスと並ぶほど、アッティクスを大切にしたと書いています。
『老年について』も『友情について』も、アッティクスにあてて書いた本です。
ネポス『アッティクス伝』16.3 sedecim volumina epistularum
本 ── 書庫に心、書庫に庭
ティランニオが書庫の本を並べてくれると、わが家に心が加わったようだ、と友に書きました。
巻物に題を書いた札をつけるために、友に人手を頼んでもいます。
友人ウァロへの手紙には、『si hortum in bybliotheca habes, deerit nihil』(書庫に庭がついていれば、すべてそろう)と書いています。
『アッティクス宛』4.8.2 Postea vero quam Tyrannio mihi libros disposuit, mens addita videtur meis aedibus.
秘書ティロ ── 速く書くしるし
ティロは、キケロの家で育ち、のちに自由の身になって、学びと書きものを助けた人だと、ゲッリウスは書いています。
ティロが自由の身になったとき、弟クィントゥスは、跳び上がって喜んだ、と兄に書きました。
執政官の年、キケロは書記たちに、短いしるしで速く書く方法を教えた、とプルタルコスは伝えています。
『縁者・友人宛書簡』16.16.1 exsilui gaudio
総督 ── キリキアでの1年
前51年7月31日、総督としてキリキアのラオディケイアに着き、この日から1年を数えてほしい、と友に書きました。
同じ手紙には、光と広場と町と家と、友人たちが恋しい、とも書いています。
総督のあいだは、朝早くから部屋の前に立って、たずねてくる人を迎えた、と伝えられます。
『アッティクス宛』5.15.1 lucem, forum, urbem, domum, vos desidero
娘トゥッリア ── 誕生日の出迎えと、なぐさめの本
前57年8月5日、ブルンディシウムに着いたキケロを、娘トゥッリアが迎えました。
その日は、トゥッリアの誕生日で、ブルンディシウムの町ができた日とも同じだった、と友に書いています。
前45年、深い悲しみの中で、自分で自分をなぐさめる本を書き、それをしたのは自分が初めてだ、と友に書いています。
『アッティクス宛』4.1.4 Ibi mihi Tulliola mea fuit praesto natali suo ipso die
本を書く日々 ── 自分の本の一覧
『占いについて』の第2巻のはじめに、キケロは、それまでに書いた哲学と弁論の本を、1つずつ並べています。
国の役目から離れていたあいだは、本の中で意見を述べ、人々に語りかけてきた、と書いています。
ギリシアの哲学の言葉に、ラテン語の名をつぎつぎにあてたのも、キケロだと伝えられます。
『占いについて』2.7 In libris enim sententiam dicebamus, contionabamur
1世紀のローマで手紙と本を書いたセネカのことは、セネカの名言と暮らしで見られます。
出典(21件)
国立国会図書館 典拠データ(Cicero, Marcus Tullius・生没年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
米国議会図書館 典拠データ(Cicero, Marcus Tullius・生没年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『老年について』『友情について』『占いについて』ファルコナー訳の対訳本(1923年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『義務について』ミラー訳の対訳本(1913年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国家について』『法律について』キーズ訳の対訳本(1928年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『トゥスクルム荘対談集』キング訳の対訳本(1927年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『弁論家について』ウィルキンズ校訂(1902年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『縁者・友人宛書簡』パーサー校訂(1901年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『アッティクス宛書簡』パーサー校訂の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『カティリナ弾劾』クラーク校訂の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
キケロの著作 ラテン語本文(各校訂本を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
ゲッリウス『アッティカの夜』ラテン語本文(ロルフ編を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
タキトゥス『弁論家についての対話』ラテン語本文(ファーノー編を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
スエトニウス『カエサル伝』ラテン語本文(イーム編を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
ネポス『アッティクス伝』ラテン語本文(ハルムとフレッケイゼン編を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
プリニウス『博物誌』7.158 ラテン語本文(マイホフ編を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
プルタルコス『キケロ伝』ギリシア語本文と英訳(ペリン編・訳を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
プルタルコス『小カトー伝』23.3 英訳(ペリン訳を底本にした電子テキスト)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
セネカ(父)『説得演説』6.17 キースリング校訂(1872年)の頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
ラボック『The Pleasures of Life』(1887年の刷)33頁の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
ベーコン『随筆集』1625年の文(アーバー編・1871年 173頁の画像)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
よくある質問
キケロは、何をした人?
前1世紀のローマで、弁論家として裁判で話し、前63年には国のいちばん上の役目の執政官をつとめた人です。友情や老い、国や正しさについての本を書き、友や家族にあてた手紙も、たくさん残っています。
キケロとキケローは、同じ人?
同じ人です。ラテン語の名は Cicero で、日本語の本では「キケロ」とも「キケロー」とも書かれます。このページは、辞典の見出しに多い「キケロ」で書いています。
『本のない部屋は、魂のない体』は、キケロの言葉?
キケロの手紙にあるのは、「ティランニオが本を並べてくれてから、わが家に心が加わったようだ」という文です(『アッティクス宛』4.8.2)。『本のない部屋は…』の形は、1887年に出た随筆の本に、キケロの言ったこととして書かれています。
『国家について』『義務について』『老年について』『友情について』は、どんな本?
『国家について』(『国家論』とも)は小スキピオたちが、どんな国がよいかを語り合う本、『義務について』はアテネで学ぶ息子マルクスにあてて、人として何をすべきかを書いた本です。『老年について』は年をとった大カトーが若い2人に老いの過ごし方を語り、『友情について』はラエリウスが友スキピオとの友情をふり返って語る本で、どちらも友アッティクスにあてて書きました。
キケロは何歳まで生きた?
前106年1月3日に生まれ、前43年12月7日に亡くなりました。満で数えると63歳です。ゲッリウスは「63年生きた」、プルタルコスは「64年目」と書いています。
「O tempora, o mores!」は、どういう意味?
「なんという時代、なんという世のならいか!」という嘆きの言葉です。前63年、執政官だったキケロが元老院で行った演説『カティリナ弾劾』の第1の演説にあり(1.2)、キケロは、ほかの演説も合わせて、この言い方を4回使っています。