アドラーの名言 ── 何歳のときの言葉?
大事なのは、何を持って生まれたかより、それをもとに何をつくるかだ。
es kommt nicht darauf an, was einer mitbringt, sondern was er daraus macht.『国際個人心理学雑誌』第3巻第6号(1925年)「報告」の欄 346頁
満55歳1925年9月6日(講演の日)
ベルリンの学会で、講演「神経症と才能」をした日です。前の日には、同じ学会で「不完全である勇気」という題の講演がありました。
講演の題の下に載った要旨の言葉です。
アドラーの年表(23の出来事)
満55歳
ベルリンの学会で講演「神経症と才能」をする
1925年9月6日・満55歳
満55歳のアドラーは、1925年2月7日から1926年2月6日まで
| 年齢 | いつ・何をした |
|---|---|
| 満0歳 | 1870年2月7日 オーストリアのウィーンで生まれる |
| 満3歳 | 3歳のとき(1937年の追悼文の書き方) 弟が亡くなる |
| 満5歳 | 5歳のとき(1937年の追悼文の書き方) 医者になろうと思うようになる 1920年の本にも、「ある医者の思い出」として同じ話があります |
| 満24〜25歳 | 1895年 ウィーン大学で医学の博士になる |
| 満26〜28歳 | 1897年(1898年とする資料もある) ライサ・エプシュタインと、ロシアで結婚する 1897年は米国議会図書館の目録とウィーン市の歴史事典、1898年は当時の人名録によります |
| 満27〜28歳 | 1898年 初めての本『仕立て職人の健康の本』を出す 年は1937年の学会誌の文と、ウィーン市の歴史事典によります |
| 満27〜28歳 | 1898年 長女ヴァレンティーネが生まれる 年は米国議会図書館の目録と、当時の人名録によります |
| 満31歳 | 1901年9月24日 次女アレクサンドラが生まれる 日付は米国議会図書館の目録によります |
| 満35歳 | 1905年2月25日 長男クルトが生まれる 日付は米国議会図書館の目録によります |
| 満36歳 | 1907年2月1日 『器官劣等性の研究』を出す 本の扉の裏にある、発行の日です |
| 満38〜39歳 | 1909年 三女コルネリアが生まれる 年は当時の人名録と、ウィーン市の歴史事典によります |
| 満41〜42歳 | 1912年2月 『神経質の性格について』の序文を書く 序文の終わりの日付(1912年2月、ウィーン)です 言葉の札:目的の力 |
| 満44歳 | 1914年4月 『個人心理学雑誌』の第1号を出す 第1号の表紙の月です |
| 満45〜48歳 | 1916〜1918年 オーストリアの陸軍で医者として働く 米国議会図書館の目録の年譜によります |
| 満49〜50歳 | 1920年 ウィーンの学校に、子どもの相談所をつくり始める 米国議会図書館の目録の年譜によります |
| 満50歳 | 1920年8月 『個人心理学の実践と理論』の序文を書く 序文の終わりの日付です |
| 満55歳(1925年2月7日から)はここ | |
| 満55歳 | 1925年9月6日 ベルリンの学会で講演「神経症と才能」をする 学会誌に載った、学会の予定と報告によります 言葉の札:持ちものより |
| 満56歳 | 1926年11月24日 ロンドンで『人間知』の序文を書く 第3版に載っている、初版の序文の日付です 言葉の札:劣等感の力 |
| 満58歳 | 1928年7〜8月 学会誌に、理性と知能についての短い論文を書く 号の月です 言葉の札:ほかの人の目で |
| 満60歳 | 1930年7月11日 ウィーン市議会が、アドラーを「ウィーン市民」に選ぶ 学会誌に載った、市長の手紙の写しによります |
| 満66歳 | 1937年1月10日 ワシントンのホテルで講演する 次の日の新聞が「昨夜」と書いています |
| 満66〜67歳 | 1937年1〜3月 学会誌に、人類の進歩についての論文を書く 号の月です。論文の名前の横に「ニューヨーク」とあります 言葉の札:自分をどう思うか |
| 満67歳 | 1937年5月28日 講演旅行の途中、スコットランドのアバディーンで亡くなる 日付は、1937年の学会誌の知らせによります |
原文は本と学会誌のページの画像から写し、訳はこのページでつけました。満年齢は、1870年2月7日の誕生日から数えています
やってみる
1問目 / 全3問
アドラーが本や学会誌に書いた考え方を6節、子どものころからの暮らしと家族を7節で読みます。どの節にも、もとになった本や資料の名前を書いています。
弱いところを、心のがんばりが補う
1907年の『器官劣等性の研究』で、アドラーは、目のような体の弱いところが、心のがんばりで補われることがあると書きました(8頁)。
その子は「痛い目にあって賢く」なれる、とことわざを引いています。
20年後の『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)では、だれにもある劣等感(Minderwertigkeitsgefühl)が、子どもの努力を動かす力になると書きました(52頁)。
目標が、心の向きを決める(目的論)
1912年の『神経質の性格について』で、アドラーは、神経質の人の姿と表れのすべてが、思い描いた目的(Endzweck)から形づくられると書きました(3頁)。
『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)では、「人の心の動きは、目標によって決まる」と短く言い表しています(13頁)。
1920年の本の「ある医者の思い出」では、子どものころに医者になる自分を思い描いたことを、「目標を決めた」と書いています(123頁)。
人とつながろうとする気持ち(共同体感覚)
1920年の『個人心理学の実践と理論』の序文で、アドラーは、人とつながろうとする気持ち(Gemeinschaftsgefühl)を、生まれつきのものと書きました。
1928年の論文では、この気持ちを「ほかの人の目で見て、ほかの人の耳で聞いて、ほかの人の心で感じる」という、英国の作家の言い回しで説明しています。
『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)には、この気持ちは、赤ちゃんが甘えたり人にふれようとしたりするときから、もう表れていると書いています(129頁)。
子どものころの目標が、おとなの生き方になる(生き方の型)
1912年の本の序文では、心の動きが1つの向きにそろった「人生の計画」(Lebensplan)という言い方をしています。
『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)では「生き方の型」(Lebensstil)と呼び、子どものころの心の目標は、おとなになってからの目標と同じだと書きました(3頁)。
人生の3つの大きな問い
『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)は、人生には3つの大きな問いがあると書いています(188頁)。
人とのつきあい、仕事、愛と結婚の3つです。
1937年の論文でも、人生の問いはみな3つに行きつくと書きました(1頁)。
「思いこみ」で苦しむ ── 本のはじめのセネカの言葉
1912年の『神経質の性格について』は、はじめにローマの哲学者セネカの手紙(78通13節)の言葉を置いています。
ラテン語の原文は Omnia ex opinione suspensa sunt で始まり、「すべては思いこみしだい」「人は、自分が不幸だと思った分だけ不幸だ」という意味の言葉が続きます。
1937年の学会誌の文は、この一文を、アドラーが土台となる本の標語に選んだ言葉として引いています。
セネカの言葉と年齢は、セネカの名言と暮らしで見られます。
ここからは、子どものころと、おとなになってからの暮らしと家族です。1937年の追悼文、本の序文、米国議会図書館の目録、ウィーン市の歴史事典、当時の人名録などから書いています。
穀物を商う家の子が、路地で遊ぶ
アドラーは、穀物を商う父レオポルトと母パウリーネの、7人の子どもの1人です(ウィーン市の歴史事典)。
体の弱い子でしたが、遊び場を外の路地に移し、のちに「路地の子だったおかげで、多くを得た」と語っています(1937年の学会誌の文)。
ウィーンの路地の子として、勇気と仲間づきあいを身につけたと、同じ年の追悼文も書いています。
5歳の決心 ── 医者になる
5歳のとき、重い肺炎にかかって治りました。
1937年の追悼文によると、アドラーは5歳のころから、医者になろうと思うようになりました。
1920年の本にも同じ話が「ある医者の思い出」として載り、友だちの父親に何になりたいかを聞かれて「お医者さん!」と答えたことも書かれています。
1年生をやり直して、数学がクラスでいちばんに
ギムナジウム(大学へ進む人が通う、中学と高校にあたる学校)の最初の年、アドラーは数学でつまずき、1年生をもう一度やり直しました。
2年生からは、クラスでいちばん数学のできる生徒になったと、1937年の追悼文は書いています。
目の医者から、町の医者へ
1895年にウィーン大学で医学の博士になり、はじめは目の医者として働き、のちに内科の医者になりました(1937年の追悼文)。
ウィーン市の歴史事典によると、プラーター公園の近くに、町の医者の診療所を開きました。
1898年の初めての本は『仕立て職人の健康の本』で、追悼文は、人を社会の中で見る、この本の一文を引いています。
結婚と、4人の子ども
ウィーン大学で、ロシアから来た学生ライサ・エプシュタインと出会い、1897年(1898年とする資料もある)に、ロシアで結婚しました(ウィーン市の歴史事典・米国議会図書館の目録)。
子どもは4人で、長女ヴァレンティーネが1898年、次女アレクサンドラが1901年、長男クルトが1905年、三女コルネリアが1909年に生まれています(米国議会図書館の目録・当時の人名録)。
1897年から1937年までの、妻と子どもたちにあてたアドラーの手紙が、米国議会図書館に残っています。
講義から生まれた本と、海をこえた講演
『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)は、ウィーンの市民大学で、何百人もの聞き手を前に1年かけて話した講義から生まれた本です。
序文は1926年11月24日にロンドンで書かれ、アドラーがイギリスとアメリカで個人心理学を広めようとしていたあいだ、校正と仕上げは、医者になった娘のアリ(アレクサンドラ)が手伝いました。
1930年の学会誌には、その年の10月の初めから、ニューヨークの大学での講義をまた始めると書かれています。
子どもたちのその後と、妻ライサ
長女ヴァレンティーネは国家学の、次女アレクサンドラは医学の、長男クルトは物理学の博士になりました(当時の人名録・米国議会図書館の目録)。
妻のライサは、ロシア語の本をドイツ語に訳し、1926年の『国際個人心理学雑誌』には本の紹介を書いています(米国議会図書館の目録・オーストリア国立図書館)。
ライサは、1962年にニューヨークで亡くなりました(ウィーン市の歴史事典・オーストリア国立図書館)。
出典(19件)
『器官劣等性の研究』(Studie über Minderwertigkeit von Organen・1907年)の画像(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『神経質の性格について』(Über den nervösen Charakter・1912年)の画像(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『個人心理学の実践と理論』(Praxis und Theorie der Individualpsychologie・1920年)の画像(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『人間知』(Menschenkenntnis。1927年に初めて出た本)の第3版(1929年)の頁の画像(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『個人心理学雑誌』第1巻第1号(1914年4月)の表紙の画像(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第3巻第5号(1925年)266頁の学会の予定(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第3巻第6号(1925年)344頁・346頁の報告(344頁は Sofie Lazarsfeld の講演の要旨)(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第6巻第4号(1928年7・8月)267頁のアドラーの論文(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第8巻第5号(1930年)XV頁(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第15巻第1号(1937年)1頁のアドラーの論文(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第15巻第2号(1937年)はじめの知らせと、Ferdinand Birnbaum の文(68〜69頁)(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
米国議会図書館「Alfred Adler Papers」の目録(年譜と、家族の手紙の説明)(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
ウィーン市の歴史事典「Alfred Adler」(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
米国議会図書館の新聞デジタル版(ワシントンの夕刊紙・1937年1月11日 B-7頁)(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
人名録『Wer ist's?』第10版(1935年)8頁の画像(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
ウィーン市の歴史事典「Raissa Adler」(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
オーストリア国立図書館「Frauen in Bewegung 1848–1938」の「Raissa Adler」(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
『国際個人心理学雑誌』第4巻第3号(1926年)166頁の本の紹介(2026-10-10 に見た文)(新しいタブで開きます)
よくある質問
アドラーは何をした人?
オーストリアのウィーンで生まれた医者で、個人心理学をつくった人です。1914年に『個人心理学雑誌』を始め、ウィーンやアメリカで講義と講演を続けました。日本では、個人心理学をアドラー心理学とも呼びます。
アドラーの生年月日は?
1870年2月7日です。オーストリアのウィーンで、7人きょうだいの1人として生まれました。
アドラーの名言は、どの本に書いてある?
このページの5つの言葉は、1912年の『神経質の性格について』、『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)、1925年・1928年・1937年の『国際個人心理学雑誌』に載ったものです。どれも、ドイツ語の原文を、本と学会誌のページの画像から写しています。
アドラーの「共同体感覚」とは?
アドラーの語 Gemeinschaftsgefühl の訳で、人とつながろうとする気持ちのことです。1920年の本の序文で、生まれつきのものと書きました。1928年の論文では、「ほかの人の目で見て、ほかの人の耳で聞いて、ほかの人の心で感じる」という言い回しで説明しています。
アドラーの「目的論」とは?
人の心の動きは、本人が思い描く目標によって決まる、という見方です。1912年の『神経質の性格について』で、神経質の人の姿と表れのすべてが、思い描いた目的から形づくられると書き、『人間知』(1927年に初めて出た本。引用は1929年の第3版の頁)では「人の心の動きは、目標によって決まる」と書きました。
「不完全である勇気」はだれの言葉?
1925年9月5日、ベルリンの学会で、アドラーの仲間の一人が話した講演の題です。要旨は『国際個人心理学雑誌』第3巻第6号の344頁に載っています。次の日、アドラーは同じ学会で講演「神経症と才能」をしました。