孫子の兵法と名言 ── 原文はどの篇?
相手と自分の両方をよく知っていれば、何度戦っても、身を安全に保てる。
知彼知己百戰不殆
彼を知り己を知れば、百戦殆からず。
謀攻篇(13篇の3番目)の終わり
謀攻篇は、戦う前のはかりごとで勝つことを書いた篇です。
よく聞く形『敵を知り己を知れば百戦危うからず』の形でよく聞きますが、原文の字は「彼」と「殆」です。
考え方同じ篇で、勝ちを前もって知る5つの道をあげ、その結びにこの句を置いています。勝ち目の節へ
背景『史記』によると、百年あまりのちの子孫の孫臏は、相手と自分の馬をくらべて、競走の順番を工夫しました。孫臏の節へ
原文の字は、曹操の注の本を1881年(明治14年)に東京で刷った版の画像で確かめました。書き下しと訳は、このページで作りました。篇の中の場所は、初め・半ば・後半・終わりで示します。
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孫子は兵法の本です。『史記』によると、書いたのは、紀元前500年ごろの中国で呉の王に仕えた孫武です。13篇の一覧のあと、考え方の4節と背景の11節に、原文の字と、どの本のどこにあるかをそえています。
孫子の13篇 ── 篇の名と、何の話か
| 順 | 篇の名 | 短い名 | 何の話か |
|---|---|---|---|
| 1 | 始計篇 | 計篇 | 始める前に、5つのことで自分と相手をくらべ、勝ち目を数える |
| 2 | 作戦篇 | 作戦篇 | 軍を出すのにかかる費用と、早く勝って終えることの大切さ |
| 3 | 謀攻篇 | 謀攻篇 | 戦う前のはかりごとで、相手をそのまま従わせる |
| 4 | 軍形篇 | 形篇 | まず守りを固めて、相手に勝てるときを待つ形 |
| 5 | 兵勢篇 | 勢篇 | 軍の勢いと、ふつうのやり方(正)と意外なやり方(奇)の組み合わせ |
| 6 | 虚実篇 | 虚実篇 | 相手の手薄な所(虚)と手厚い所(実)を見て動く |
| 7 | 軍争篇 | 軍争篇 | 相手より先に有利な場所をとる動き方 |
| 8 | 九変篇 | 九変篇 | 土地や場合に合わせて、やり方を変える |
| 9 | 行軍篇 | 行軍篇 | 軍の置き方と、相手の様子の見分け方 |
| 10 | 地形篇 | 地形篇 | 6つの土地の形と、将のつとめ |
| 11 | 九地篇 | 九地篇 | 9つの土地と、そこでの兵の心の動き |
| 12 | 火攻篇 | 火攻篇 | 火を使う5つの攻め方 |
| 13 | 用間篇 | 用間篇 | 相手の様子を知らせる人(間)の、5つの使い方 |
篇の名は、このページの原文の版(1881年)の名です。短い名は、注をまとめた別の系統の本(『孫子十家註』)の名です。
勝ち目 ── 始める前に数える
始計篇で孫子は、始める前に勝ち目を数え、多く数えられた側が勝つと書きます。
軍形篇では、勝つ軍はまず勝てる形を整え、それから戦う場を求める、と書いています。
謀攻篇では、勝ちを前もって知る5つの道をあげ、相手と自分の両方を知ることで結んでいます。
軍形篇(13篇の4番目) 勝兵先勝而後求戰
はかりごと ── いちばん上は、相手の計画に手を打つ
謀攻篇で孫子は、百回戦って百回勝つより、戦う前に相手の軍を従わせるほうが上手だと書きます。
いちばんよいのは相手のはかりごとに手を打つこと、次は相手と組む国との結びつきに手を打つこと、その次が軍に向かうことで、城を攻めるのはいちばん下だと続けます。
曹操はこの句に、相手がはかりごとを立て始めたときに手を打てば、たやすい、と注をつけています。
謀攻篇(13篇の3番目) 上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城
水 ── 相手に合わせて形を変える
虚実篇で孫子は、軍の形は水に似ていると書きます。
水が土地に合わせて流れを決めるように、軍も相手に合わせて勝ち方を決め、軍も水も形を変えつづける、と続けます。
同じ篇の初めには、上手な人は相手を自分の思う所へ動かす、と書いています。
虚実篇(13篇の6番目) 水因地而制流、兵因敵而制勝
同じ舟 ── 左右の手のように
九地篇で孫子は、仲の悪い呉の人と越の人も、同じ舟で風にあえば、左右の手のように助け合うと書きます。
だから上手な人は、ひとりの人の手を引くように軍全体を動かす、兵が追いつめられた場にいるからだ、と続けています。
この文から、のちに4字の「呉越同舟」という言葉が生まれました。
九地篇(13篇の11番目) 攜手若使一人不得已也
斉の人 ── 13篇で呉の王に会う
『史記』は、孫子(孫武)を斉の国の人とし、兵法によって呉の王の闔廬に会ったと書きます。
闔廬は、あなたの13篇はすべて読んだ、少し試してみてよいか、とたずねました。
このページの年表は、生まれた年の代わりに、『史記』に年が書かれた出来事と、本が伝わった年で組んでいます。
『史記』孫子呉起列伝 孫子武者、齊人也、以兵法見於吳王闔廬
伝え方 ── わかるまで伝えるのは、将のつとめ
『史記』によると、女の人でも試せるかと闔廬に聞かれた孫武は、宮中の180人を2つの隊に分け、太鼓の合図にみなが笑うと、言いつけを行きわたらせるのは将のつとめだと言って、何度も言い聞かせました。
2度目も笑いが起きると、孫武は王の止める言葉より決まりを先にして、隊長の2人に重い罰を与え、次の人を隊長にしました。
そのあと隊は前後左右の合図どおりにそろって動くようになり、闔廬は孫武を将にした、と『史記』は書いています。
『史記』孫子呉起列伝 約束不明、申令不熟、將之罪也
楚の都 ── 今は待とう、先に味方を
『史記』によると、前512年、楚の都に攻め入ろうとする闔廬に、将軍の孫武は、民が疲れているので待とう、と言いました。
前506年、闔廬にたずねられた伍子胥と孫武は、楚の将は欲が深く、まわりの唐と蔡がうらんでいるので、先に唐と蔡を味方にしよう、と答えました。
その年、呉は楚の軍を破り、楚の都の郢に入りました。
『史記』呉太伯世家 將軍孫武曰、民勞、未可、待之
呉と越 ── となりどうしの2つの国
呉と越はとなりあう国で、何度も争いました。
越の王の句践は、苦い胆を座る所に置いてなめ、くやしさを心にとどめたと、『史記』は書いています。
4字の「臥薪嘗胆」のうち、『史記』のこの巻にあるのは「嘗胆」のほうです。
『史記』越王句践世家 置膽於坐、坐臥卽仰膽、飮食亦嘗膽也
孫臏 ── 百年あとの子孫と、馬の順番
『史記』は、孫武から百年あまりのちに子孫の孫臏が出たと書き、この人のことも「孫子」と呼んでいます。
斉の将の田忌が馬の競走をしたとき、孫臏は、相手の上の馬にこちらの下の馬を、相手の中の馬にこちらの上の馬を、相手の下の馬にこちらの中の馬を当てさせました。
3回のうち2回勝った田忌は孫臏を王にすすめ、王は孫臏を兵法の先生にしました。
『史記』孫子呉起列伝 今以君之下駟與彼上駟、取君上駟與彼中駟、取君中駟與彼下駟
記録 ── 『左伝』の0回と、2つの孫子
春秋時代のできごとをくわしく書いた『左伝』の全文で「孫武」の字を数えると、0回です。
そのため、宮中の女の人を兵にして試した話は、宋の時代の学者に、とっぴで信じにくいと書かれました。
漢の時代の本の目録には、呉の孫子の兵法82篇と、斉の孫子89篇が並んでいます。
『文献通考』経籍考 其言闔廬試以婦人尤為奇險不足信
竹簡 ── 1972年、土の中から2つの孫子
1972年、中国の山東省の銀雀山で、竹の札に書かれた兵法の本が見つかりました。
その中には、いまの孫子13篇のうち12篇の一部にあたる竹簡と、『孫臏兵法』にあたる竹簡がありました。
竹簡では、軍形篇の『守則不足、攻則有餘』が逆の『守則有餘、攻則不足』で、虚実篇の名は「實虛」でした。
軍形篇(1881年の版) 守則不足、攻則有餘
曹操 ── 注をつけて読みつぐ
三国時代の曹操は、多くの兵書を読んだなかで、孫武の書いたものは深いと序に書き、注をつけました。
のちの『隋書』の本の目録には、『孫子兵法』2巻を呉の将の孫武が書き、魏の武帝(曹操)が注をつけた、とあります。
このページの原文は、曹操の注の本を1881年(明治14年)に東京で刷った版から引いています。
曹操の序(1881年の版) 吾觀兵書戰策多矣、孫武所著深矣
日本 ── 760年の九地篇と、雁の列
760年(天平宝字4年)、大宰府にいた吉備真備のもとで、6人に諸葛亮の陣の形や孫子の九地篇などを学ばせた、と『続日本紀』にあります。
1254年(建長6年)にまとめられた『古今著聞集』には、源義家が大江匡房に兵法を学び、のちに雁の列が乱れるのを見て、野に伏せた兵に気づいた話があります。
孫子の行軍篇にも、鳥が飛び立つのは伏せた兵がいるしるし、という句があります。
『続日本紀』巻23 令習諸葛亮八陳・孫子九地及結営向背
旗 ── 風林火山の14字
山梨県は1980年に、県に伝わる2つの「孫子の旗」を県の文化財にしました。
そのうちの1つの案内は、旗を武田軍の軍旗とし、孫子の『疾如風徐如林侵掠如火不動如山』の14字が金で書かれていると説明しています。
14字は軍争篇の6つの句のうち、はじめの4つで、4字の「風林火山」は、武田信玄が軍旗に用いたこの句を縮めた呼び名だと、辞書は説明しています。
山梨県の文化財の案内(孫子の旗) 疾如風徐如林侵掠如火不動如山
世界 ── パリ、東京、ロンドン
1772年、パリでフランス語の訳が出ました。
1910年にロンドンで出た英語の訳の序は、はじめての英語の訳が1905年に東京で、Sonshi という題で出たと書いています。
序はこの題を、Sun Tzu の日本での呼び方だと説明しています。
1910年の英語の訳の序(p.viii) under the title “Sonshi” (the Japanese form of Sun Tzŭ)
孫子の年表 ── 孫武のころと、本の旅(15の出来事)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 孫武のころ(春秋時代の終わり)と、子孫の孫臏 | |
| 前514年 | 闔廬が呉の王になる 『史記』十二諸侯年表・呉太伯世家 |
| 前512年 | 楚に攻め入ろうとする闔廬に、孫武が「待とう」と言う 『史記』呉太伯世家 |
| 前506年 | 呉が楚の軍を破り、楚の都の郢に入る 『史記』十二諸侯年表・呉太伯世家・『左伝』定公4年 ぶつかった場所の柏挙の名は『左伝』に、孫武の名は『史記』にあります。 |
| 前473年 | 越が呉をほろぼす 『史記』六国年表 |
| 前341年 | 孫臏を軍師に、斉が魏を馬陵で破る 『史記』六国年表 |
| 本の旅 | |
| 2〜3世紀 | 曹操が孫子に注をつける 曹操の序・国立国会図書館の書誌(曹操の生没年) 曹操が生きたのは155〜220年です。 |
| 760年(天平宝字4年) | 大宰府で、吉備真備のもとで孫子の九地篇を学ばせる 『続日本紀』巻23 |
| 1254年(建長6年) | 『古今著聞集』がまとまり、雁の列の話がのる 『古今著聞集』巻9・奥書 |
| 1606年(慶長11年) | 京都の伏見で、活字で刷った『七書』が出て、1冊目に孫子が入る 国立国会図書館の書誌(伏見版『七書』) |
| 1772年 | パリでフランス語の訳が出る フランス語の訳の扉 1910年の英語の訳の序は、1782年にパリで出た本をあげています。 |
| 1881年(明治14年) | 東京で『魏武帝註孫子』が刷られる(このページの原文の版) 国立国会図書館の書誌 |
| 1905年 | はじめての英語の訳が東京で出る(題は Sonshi) 1910年の英語の訳の序(p.viii) 年は、1910年の英語の訳の序に書かれた年です。 |
| 1910年 | ロンドンで英語の訳が出る 英語の訳の扉 |
| 1972年 | 山東省の銀雀山で、『孫子兵法』と『孫臏兵法』にあたる竹簡が見つかる 中国の通信社の記事(2023年)・博士論文 |
| 1980年(昭和55年)9月18日 | 山梨県が、2つの「孫子の旗」を県の文化財に指定する 山梨県の文化財の案内 |
出典(21件)
国立国会図書館デジタルコレクション『魏武帝註孫子』(曹操注・鹿又常校点・1881年)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『七書』第1冊(伏見版・1606年)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『史記評林』巻65 孫子呉起列伝(1885年・20〜21コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『史記評林』巻31 呉太伯世家(1885年・8〜9コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『史記評林』巻41 越王句践世家(1885年・26コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
『史記』巻14 十二諸侯年表(原文)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『史記評林』巻15 六国年表(1885年・4コマと15コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
『春秋左氏伝』(原文・12公の全文)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
『漢書』巻30 芸文志(原文)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
『隋書』巻34 経籍志(原文)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『文献通考』巻221(174コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『続日本紀』巻23(47コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『国史大系』第15巻『古今著聞集』巻9(192コマ)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
山梨県 山梨の文化財ガイド 孫子の旗(RC0003)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
山梨県 山梨の文化財ガイド 孫子の旗(RC0006)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
フランス語の訳『Art militaire des Chinois』1772年の扉の画像(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
英語の訳『Sun Tzŭ on the Art of War』ジャイルズ訳・1910年の頁の画像(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
石井真美子「『孫子』の構造と編纂過程」博士論文・2002年度(竹簡の字と篇の名)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
中国の通信社の記事(2023年3月25日・竹簡が見つかった年と月)(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
よくある質問
孫子はいつの時代の人?
『史記』によると、中国の春秋時代の終わりの人で、前514年に呉の王になった闔廬に仕えました。『史記』は、前512年と前506年の出来事に孫武の名をあげています。
孫武と孫臏は、どうちがう?
『史記』によると、孫武は呉の王に仕えた人で、13篇を書いたと伝わります。孫臏は百年あまりのちの子孫で、斉の王の兵法の先生になりました。『史記』は2人とも「孫子」と呼び、1972年には『孫子兵法』と『孫臏兵法』にあたる竹簡が、同じ所から見つかりました。
「彼を知り己を知れば」の原文と続きは?
謀攻篇の終わりの句で、原文は『知彼知己百戰不殆』です。続きの原文は『不知彼而知己、一勝一負、不知彼不知己、每戰必敗』で、知る度合いによって結果が変わることを3段で書いています。よく聞く『敵を知り己を知れば百戦危うからず』は、原文の字では「彼」と「殆」です。
「兵は詭道なり」の意味は?
始計篇の後半の句で、原文は『兵者詭道也』です。いくさは相手の読みの裏をかくもの、という意味で、このあと、近くにいるときは遠くに見せ、遠くにいるときは近くに見せる、などの例が続きます。
風林火山の元は、どんな句?
孫子の軍争篇の6つの句で、たとえは風・林・火・山・陰・雷です。山梨県に伝わる2つの「孫子の旗」には、そのうちの、はじめの4つが書かれています。4字の「風林火山」は、武田信玄が軍旗に用いた句を縮めた呼び名だと、辞書は説明しています。
呉越同舟の由来は?
孫子の九地篇で、仲の悪い呉の人と越の人も、同じ舟で風にあえば左右の手のように助け合う、と書いた文から生まれた言葉です。