渋沢栄一の名言と年表 ── 何歳で、どこで話した?

やさしく言いかえると
何ごとも、もうこれで満足だと思ったときが、衰えるときです
原文(今の字で書いています)
総て世の中のことはもう是れで満足だと云ふ時は即はち衰ふる時期である
- いつ
- 1897年7月6日(明治30年7月6日)・満57歳
- どこで
- 高等商業学校の卒業式の演説
- のっている所
- 『渋沢栄一伝記資料』第26巻 602ページ(新しいタブで開きます)
- そのころ
- この年、生まれた村の神社にお金を出し、石の柱に刻む神社の名前も書いています
日付: 国立天文台「日本の暦日データベース」(2026-10-10 に見た文)で、改暦より前の和暦を西暦に直しました/肖像の出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
栄一の年表(18のできごとと、6つの言葉)
| 年齢 | いつ・何があった |
|---|---|
| 満0歳 | 1840年3月16日(天保11年2月13日) 武蔵国の血洗島で生まれる |
| 満12〜13歳 | 1853年2月8日〜1854年1月28日(かえい6年) 一人で藍の葉を買い集め、父にほめられる 数えで14歳の年です。日付はかえい6年の始めから終わりまでの幅です |
| 満18歳 | 1859年1月10日(安政5年12月7日) 千代と結婚する |
| 満23歳 | 1863年12月18日(文久3年11月8日) 家を出て、京都へ向かう |
| 満23歳 | 1864年3月15日(文久4年2月8日) 一橋家に仕える 日付は伝記資料の見出しによります。この日の元号は、暦日データベースでは文久です |
| 満26歳 | 1867年2月15日(慶応3年1月11日) パリへ向かう船で、日本を出る |
| 満28歳 | 1868年12月16日(明治元年11月3日) 横浜に帰る |
| 満29歳 | 1869年12月6日(明治2年11月4日) 明治の政府で働き始める 日付は伝記資料の見出しによります |
| 満33歳 | 1873年7月20日(明治6年7月20日) 銀行が開業する この年の5月14日に大蔵省をやめています |
| 満36歳 | 1876年5月11日(明治9年5月11日) 東京府の養育院の仕事を受けもつ |
| 満38歳 | 1878年8月1日(明治11年8月1日) 東京の商人たちの会議所で、いちばん上の役(会頭)につく |
| 満42歳 | 1882年7月14日(明治15年7月14日) 妻の千代が亡くなる |
| 満42歳 | 1883年1月18日(明治16年1月18日) かねと結婚する 日付は伝記資料の見出しによります |
| 満57歳 | 1897年7月6日(明治30年7月6日) 卒業式の演説で「もうこれで満足だと…」と話す |
| 満61歳 | 1901年4月20日(明治34年4月20日) 女子の学校の開校式で話す |
| 満68歳 | 1909年2月11日(明治42年2月11日) 会の集まりで「一人だけ富んで…」と話す |
| 満69歳 | 1909年6月6日(明治42年6月6日) 数えで70歳になり、多くの会社の役をおりる |
| 満72歳 | 1912年6月26日(明治45年6月26日) 「天命を楽しんで…」の本が出る 本が出た日です |
| 満73歳 | 1913年10月9日(大正2年10月9日) 祝いの会で「論語と算盤は…遠くて近い」と話す |
| 満76歳 | 1916年7月25日(大正5年7月25日) 銀行の長をやめ、実業界から退く |
| 満76歳 | 1916年10月1日(大正5年10月1日) 生まれた村の神社で「理想によって生きる」と話す |
| 満83歳 | 1924年1月22日(大正13年1月22日) 浅野総一郎の「六・七十はまだはなたれ小僧」を受けて話す |
| 満86歳 | 1927年3月3日(昭和2年3月3日) アメリカから届いた人形を迎える会で話す |
| 満91歳 | 1931年11月11日(昭和6年11月11日) 東京・飛鳥山の家で亡くなる |
年表のできごとは『渋沢栄一伝記資料』の第1〜57巻から取りました。言葉の行の巻とページは、札を選ぶと上の「のっている所」に出ます。
やってみる
1問目 / 全3問
ここからは、栄一の考え方を『論語と算盤』から3つ、暮らしを本人の話や日記、家族が書いた本から8つ見ていきます。
論語と算盤は、遠くて近い
栄一は、論語(正しい生き方の教え)と算盤(お金の計算)は、とても離れたものに見えるけれど、算盤は論語によってできている、と考えました。
1913年10月9日、満73歳のあいさつでは「論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いもの」と話し、長く続くのは正しい道理にかなったもうけだ、とも話しています(『渋沢栄一伝記資料』第48巻 233〜234ページ)。
1927年の版の『論語と算盤』も、この話の文から始まります(1〜3ページ)。
士魂商才 武士の心と、商いの力
栄一は「士魂商才」という言葉をよく使いました。武士の心と、商いの力の両方が要る、という意味です。
お金の面でもうまくいくには、武士の心に、商いの力を合わせることが大切だ、と書かれています(『論語と算盤』1927年の版 3〜5ページ)。
この本は、栄一の話をのせた雑誌の文を、編む人が集めて分けたものです(1927年の版の凡例)。
正しい道と、もうけは1つ
『論語と算盤』には、正しい道(義)ともうけ(利)は1つのもの、という考えが「義利合一」という言葉で書かれています(1927年の版 169ページ)。
栄一は1917年の手紙で、自分の考えを「道徳経済合一説」とよんでいます(『渋沢栄一伝記資料』第31巻 439ページ)。
同じ本の中で、見出しは「義理合一」、本文は「義利合一」と、1字ちがっています。
数えで14歳、一人で藍を買い集める
栄一の家は、麦や藍をつくり、蚕を育て、藍の葉から藍玉をつくって売っていました。
数えで14歳の1853年(かえい6年)、父が旅に出ているあいだに、栄一は一人で村をまわって藍の葉を買い集めました。帰ってきた父は、その手ぎわをほめました。
子どものころは、生まれた村の神社の境内で遊び、祭りの日には村の若者と「ささら」を舞いました(1916年の喜寿の碑の文)。
満18歳で、千代と結婚
1859年1月10日(安政5年12月7日)、満18歳の栄一は千代と結婚しました。
千代は、若いころから蚕を育て、糸をとり、はたを織って、家の仕事を助けていました。
娘の歌子は、のちに母の思い出を本に書き、千代の手は白くて細いのに、指の節は太く、力も強かったと書いています。
満23歳、家を出て京都へ
1863年12月18日(文久3年11月8日)、満23歳の栄一は家を出て、京都へ向かいました。
次の年の1864年3月15日(文久4年2月8日)、一橋家に仕えます。給料は「四石二人扶持」で、これが栄一の初めての給料でした。
喜作と2人で1つの部屋を借り、汁の具やたくあんを自分で買いに行き、ときどき買う牛肉が、いちばんのごちそうでした。
満26歳、パリへ
1867年2月15日(慶応3年1月11日)、栄一は、徳川家の若い殿さまについて、ヨーロッパへ行く船で日本を出ました。出発の前に横浜で、フランス人の先生にまねかれて、初めて洋食の昼ごはんを食べています。
1868年12月16日(明治元年11月3日)、横浜に帰ります。その日の日記には、明け方、船から見た富士山が、中ほどまで雪におおわれ、朝日にてらされて銀の山のようだったと書いています。
満33歳、銀行の仕事へ
1873年5月14日、満33歳の栄一は大蔵省をやめ、7月20日に銀行が開業しました。
1876年には東京府の養育院の仕事を受けもち、1878年には東京の商人たちの会議所で、いちばん上の役(会頭)につきました。
千代とかね
1882年7月14日、妻の千代が亡くなりました。このとき家には、娘の歌子と琴子、息子の篤二がいました。
次の年の1883年1月18日、満42歳の栄一は、かねと結婚しました。
かねとのあいだの子には、息子が3人、娘が1人います。
満76歳の朝ごはん
1916年7月25日、満76歳の栄一は銀行の長をやめ、実業界から退きました。
そのころの朝ごはんは、オートミールにクリームと砂糖をかけたものと、スープ、半熟の卵2つでした(1916年8月の雑誌の話)。
満89歳の1929年には、ずっと前に福沢諭吉と将棋をして、一度勝ったことを話しています。
88年目のひな祭り
1927年3月3日、アメリカから届いた人形を迎える会で、満86歳の栄一があいさつをしました。
「私が生れて八十八年たつて、今日始めてひな祭りのうれしいことを知りました」と話しています。この「八十八年」は、数えで88歳と同じ数です。
1931年11月11日、栄一は東京・飛鳥山の家で亡くなりました。満91歳でした。
数え年の数え方は、福沢諭吉の年表の読み物でも見られます。
よくある質問
渋沢栄一は何した人?
1867年に徳川家の若い殿さまについて、ヨーロッパへ行き、フランスから帰ったときから、会社の仕組みで日本を豊かにしようと考えました。明治の政府で働いたあと、1873年に開業した銀行の仕事を、1916年まで続けました。東京府の養育院や、東京の商人たちの会議所の仕事も受けもち、女子の学校の開校式でも話しています。論語と算盤は遠くて近い、という考えを話しました。
「四十五十ははなたれ小僧」はだれの言葉?
1924年1月22日の夕食会の記録(『渋沢栄一伝記資料』第43巻 173〜174ページ)では、浅野総一郎が「六・七十はまだはなたれ小僧」と話し、渋沢栄一はその言葉を受けて、読んでいる本の考えを紹介しています。記録にある数は、浅野の六・七十と、栄一が本の考えとして紹介した五十台までです。
「信用は資本」は渋沢栄一の言葉?
1912年の本『せいえん百話』で、渋沢栄一は、英国(イギリス)の習わしとして「信用は資本なり」という言葉を紹介しています(『渋沢栄一伝記資料』別巻第6 65ページ)。
渋沢栄一の子どもは?
妻の千代との子には、娘の歌子と琴子、息子の篤二がいます。1883年には、かねと結婚しています。かねとの子には、息子が3人、娘が1人います。
渋沢栄一の出身は?
1840年3月16日(天保11年2月13日)に、武蔵国の血洗島の農家に生まれました。血洗島は、いまの埼玉県深谷市にあります(深谷市の案内)。