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空白の10日間 ── 10月4日の次は15日

どの切りかえ?

10月4日の次の日は10月15日

10日を消した

1582年10月のカレンダー。4日(木)の次の日が15日(金)。10月は21日で、消えた日は5日〜14日の10日。

日付の出典: ローマ教皇の勅書(1582年)・イギリスの法律 Calendar (New Style) Act 1750 第1条・改暦ノ布告(明治5年)。曜日と日数は計算です。

誕生日は、切りかえの年にあった?

月日
  • 1582年10月に切りかえた所消えた日10月5日〜14日をとばした
  • 1751年イギリス(イングランド)あった
  • 1752年イギリスあった

月と日を入れると、3つの年にその日があったかを出します。

空白の10日間の早見表

暦の切りかえと、日数・ずれ
問い答え
1582年10月4日の次の日は?10月15日ローマ教皇の勅書
イギリスで1752年9月2日の次の日は?9月14日イギリスの法律
明治5年12月2日の次の日は?明治6年1月1日改暦ノ布告
イングランドの1751年は何日?282日計算(3月25日〜12月31日)
イギリスの1752年は何日?355日計算(366日−11日)
ユリウス暦とグレゴリオ暦のずれは、いま何日?13日計算(1900年から)

曜日・日数・ずれは、ユリウス暦とグレゴリオ暦の決まりで計算しました。

やってみる

1問目 / 全4問

1582年10月4日の次の日は、何日になった?

1582年10月、4日の次の日が15日になりました。暦のずれを直すためです。イギリスはそれから170年後の1752年に、11日を消しています。

春分を3月21日にもどすために、10日を消した

国立天文台の暦Wiki は「16世紀には、天文学的な春分の日は3月11日ごろになっていました。」と書いています。ユリウス暦のうるう年は400年に100回、グレゴリオ暦は97回で、ユリウス暦のほうが、うるう年が3回多い暦です(計算)。

勅書(ちょくしょ)は「vernum aequinoctium, quod a patribus concilii Nicaeni ad XII kalendas aprilis fuit constitutum, ad eamdem sedem restituatur」と書いています。春分を、もとの日(3月21日)にもどす、という意味です(このページの訳)。3月21日は、この本の編者が同じ頁の欄外に書いた「ad diem XXI martii」(3月21日に)の日です。暦Wiki も「春分の日が3月21日ごろになるよう、10月4日の翌日を10月15日とし、10日とばしました。」と書いています。

イギリスの法律の前文も「the vernal or spring equinox, which at the time of the general council of Nice in the year of our Lord three hundred and twenty-five happened on or about the twenty-first day of March, now happens on the ninth or tenth day of the same month」と書いています。325年の公会議のころ3月21日ごろだった春分が、法律ができたころは、同じ月の9日か10日に来ていた、という意味です(このページの訳)。

イギリスが消したのは、1日多い11日

イギリスの法律は「the natural day next immediately following the said second day of September shall be called, reckoned, and accounted to be the fourteenth day of September, omitting for that time only the eleven intermediate nominal days of the common calendar」と書いています。9月2日の次の日を9月14日と呼び、このときだけ、間の11日を除く、という意味です(第1条・このページの訳)。

イギリスは1582年には切りかえず、ユリウス暦のまま1700年をうるう年にしました。勅書は「ita ut annus MDCC, MDCCC, MDCCCC bissextiles non sint」と書き、1700年を平年と決めていたので、1700年2月29日はユリウス暦にだけある日です。ずれはここで1日ふえました(計算・下の表)。

法律の第1条は、イギリスの国王の「in Europe, Asia, Africa, and America」の領地すべてに向けて書かれています。

  • 1582年10月の切りかえのとき 10日
  • 1700年3月1日から 11日
  • 1800年3月1日から 12日
  • 1900年3月1日から 13日

日付はユリウス暦の日付です(計算)。

イングランドの1751年は、282日だった

法律の前文は「the legal supputation of the year of our Lord in England, according to which the year beginneth on the twenty-fifth day of March」と書き、それが「it differs from the usage of neighbouring nations, but also from the legal method of computation in Scotland」と断っています。イングランドの法律の上の1年は3月25日に始まり、近くの国々とも、スコットランドの法律の数え方とも違っていた、という意味です(このページの訳)。第1条は、この数え方を1751年12月31日でやめ、次の1月1日を1752年の初めの日にしました。

暦Wiki は「これにより、1751年は3月25日に始まって12月31日に終わり、合計282日となりました。」「1752年はうるう年で、9月から11日除かれましたから、合計355日となりました。」と書いています。

暦Wiki は「たとえば、"Jan. 1, 1669-70"のような表現は、イギリスでは1669年の1月1日、ほかでは1670年の1月1日であることを意味します。」とも書いています。同じ1月1日でも、イングランドとほかの国で、年の数が1つ違いました。

日付はとんでも、曜日は続いていた

1582年は10月4日(木)の次が10月15日(金)、イギリスの1752年は9月2日(水)の次が9月14日(木)でした(計算)。暦Wiki は「曜日は問題ないのでそのまま連続させています。」と書いています。

1583年からの日付の曜日は、曜日を暗算で当てるで、足し算で出せます。

勅書の日付は、ローマ式の数え方で書いてある

勅書は、除く10日を「decem dies inclusive a tertia nonarum usque ad pridie idus eximantur, et dies, qui festum S. Francisci IV nonas celebrari solitum sequitur, dicatur idus octobris」と書いています。日付は、ノネ(nonae)とイドゥス(idus)から数える書き方です。

暦Wiki は、10月(October)などについて「ノネが7日でイドゥスが15日なのは、これらの月です。」と書き、「日付はカレンデ・ノネ・イドゥスを基準にして逆向きに数えます。」「その日を含んで数えます」「特定の日の前日はpridieを使います。」と書いています。下の表は、それで読みかえた日付です(計算)。

訳: 10月の、ノネの3日前からイドゥスの前日までの10日を除き、聖フランシスコの祝日(ノネの4日前)の次の日を、10月のイドゥスと呼ぶ(このページの訳)。

勅書の語読み方今の日付
IV nonasノネ(7日)の4日前4日
tertia nonarumノネの3日前5日
pridie idusイドゥス(15日)の前日14日
idus octobris10月のイドゥス15日

日本は明治5年に、暦そのものを取りかえた

改暦ノ布告は「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」と決めました。明治5年12月2日の次の日が、明治6年1月1日です。

1582年と1752年は、同じユリウス暦の日付をとばして、ずれを直しました。日本は、布告の言う「太陰暦」から「太陽暦」へ、暦そのものを取りかえています。国立天文台の日本の暦日データベースでは、西暦1872年12月31日が明治5年12月2日、1873年1月1日が明治6年1月1日で、西暦の日は続いています。

1582年に10日をとばした日、日本の暦では、天正10年9月18日の次の日が天正10年9月19日でした(同じデータベース)。

中学校の歴史では、この時代を学びます。学習指導要領の解説は、この時代について「文明開化の風潮については,欧米諸国から取り入れた制度や文化の影響で,社会の様子や人々の生活が大きく変化したことに気付くことができるようにする。」と書いています。

『Bullarum diplomatum et privilegiorum sanctorum Romanorum pontificum Taurinensis editio』第8巻(1863年)388ページの勅書「Inter gravissimas」(2026-10-03 に見た文)(新しいタブで開きます)

英国国立公文書館(legislation.gov.uk)「Calendar (New Style) Act 1750」前文・第1条・改正を当てた版(2026-10-03 に見た文)(新しいタブで開きます)

明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告) 本文(e-Gov 法令検索で 2026-09-24 に見た版)(新しいタブで開きます)

国立天文台 暦計算室「グレゴリオ暦(暦Wiki)」(2026-10-03 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立天文台 暦計算室「1年の始まり(暦Wiki)」(2026-10-03 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立天文台 暦計算室「1か月とは? 月の日数(暦Wiki)」(2026-10-03 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立天文台 暦計算室「古代ローマ暦(暦Wiki)」(2026-10-03 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立天文台 暦計算室「日本の暦日データベース」(2026-10-03 に引いた値)(新しいタブで開きます)

文部科学省「【社会編】中学校学習指導要領(平成29年告示)解説」歴史的分野 C(1)ア(イ)(紙面113)(2026-10-03 に取得した版)(新しいタブで開きます)

ラテン語と英語の資料は、このページで訳しました。

よくある質問

空白の10日間とは何ですか

1582年10月に、10月4日の次の日を10月15日にしたときに、とばした10月5日〜14日の10日のことです。ローマ教皇グレゴリオ13世の勅書(ちょくしょ)が決めました。国立天文台の暦Wiki は「1582年10月4日(木)の翌日を、1582年10月15日(金)とし、ユリウス暦で入れ過ぎたうるう年の分だけ日付を飛ばしました。」と書いています。

1582年10月のカレンダーで、4日の次が15日なのはなぜですか

春分の日を、もとの3月21日ごろにもどすためです。暦Wiki は「16世紀には、天文学的な春分の日は3月11日ごろになっていました。」「春分の日が3月21日ごろになるよう、10月4日の翌日を10月15日とし、10日とばしました。」と書いています。1582年10月に切りかえた所の10月は、1日〜4日と15日〜31日の21日です(計算)。

ユリウス暦とグレゴリオ暦の違いは何ですか

うるう年の決まりが違います。ユリウス暦は4で割れる年をすべてうるう年にします。グレゴリオ暦は、そのうち100で割れて400で割れない年を平年にします。勅書は「ita ut annus MDCC, MDCCC, MDCCCC bissextiles non sint」(1700年・1800年・1900年は平年とする・このページの訳)と書いています。400年のうちのうるう年は、ユリウス暦が100回、グレゴリオ暦が97回です(計算)。

ユリウス暦とグレゴリオ暦のずれは、何日ですか

1582年10月の切りかえのときは10日でした。ユリウス暦だけがうるう年にした1700年・1800年・1900年の2月29日のたびに1日ずつふえ、ユリウス暦の1900年3月1日からは13日です(計算)。暦Wiki も、イギリスについて「1700年にもう1日ずれたので、11日除く必要があります。」と書いています。

グレゴリオ暦は、いつから使われていますか

勅書が決めた1582年10月15日からです(このページの読み替え)。暦Wiki は「導入時期は国や州ごとに異なりますので、日付の比較には注意が必要です。」「イギリスでは1752年9月2日(水)の翌日を1752年9月14日(木)とする形で導入されました」と書いています。日本が太陽暦にしたのは、明治6年1月1日です(改暦ノ布告)。

日本は、いつから太陽暦になったのですか

明治6年1月1日からです。改暦ノ布告は「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」と決めました。布告は、それまでの暦を「太陰暦」、新しい暦を「太陽暦」と呼んでいます。国立天文台の日本の暦日データベースでは、西暦1872年12月31日が明治5年12月2日、1873年1月1日が明治6年1月1日で、西暦の日は続いています。