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津田梅子の名言と年表 ── 何歳の言葉?

津田梅子の写真
名言を選ぶ

日本語で、やさしく言うと

英語を知っていることは、高い教育と広い教養のために、とても大切です。女の人は、それをますます熱心に求めています

原文(英語)

A knowledge of English is essential to higher education and the broader culture, which is more and more eagerly sought by women …
いつ
1916年9月9日に書いた序(じょ)(大正5年9月9日)・満51歳(さい)
どこで
女学校の英語の教科書『女子大正りーだず』第4巻のはじめの「序(じょ)」
のっている所
『女子大正りーだず』第4巻(1916年)序の1ページ(新しいタブで開きます)
そのころ
この前の年の1915年11月、梅子(うめこ)は、長く女子の教育につくした人として、勲(くん)六等宝冠章(ほうかんしょう)を受けていました

この序(じょ)は、梅子(うめこ)ともう1人の人の、2人の名前で書かれています

英文は梅子の文からの引用で、日本語はこのページでつけました。日付と英文: 論文と教科書の序は、その本の画像から、式辞は『津田梅子文書』(改訂版・1984年)の英文を写した資料から取りました。序は、梅子ともう1人の人の2人の名前で書かれています。満年齢は、1864年12月31日の誕生日から数えています/肖像の出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

梅子(うめこ)の年表(19のできごとと、6つの言葉)

津田梅子の年表。年齢、西暦と和暦の日付、できごとと言葉
年齢(ねんれい)いつ・何があった
満0歳(さい)

1864年12月31日(元治元年12月3日)

江戸(えど)で、父仙(せん)の次女として生まれる

むかしのこよみの日付を、今のこよみに直すと12月31日です

満6歳(さい)

1871年12月19日(明治4年11月8日)

絵入りの事典2冊に、父から梅子(うめこ)への英語の言葉と、この日の日付が書かれる

満6歳(さい)

1871年12月23日(明治4年11月12日)

岩倉使節団といっしょに、アメリカへ出発する。女の子5人の中で、いちばん年下

満7歳(さい)

1872年1月15日(明治4年12月6日)

サンフランシスコに着く

1871年12月31日の満7歳(さい)の誕生日は、海をわたる船の上でむかえました(出発の日と着いた日からの計算)

満7歳(さい)

1872年2月29日(明治5年1月21日)

使節団といっしょに、ワシントンに着く

満17歳(さい)

1882年11月(明治15年11月)

アメリカでの勉強を終えて、日本に帰る

満20歳(さい)

1885年9月(明治18年9月)

華族(かぞく)女学校ができるときにえらばれ、外国の言葉を教える先生になる

満24歳(さい)

1889年7月(明治22年7月)

先生のまま、ふたたびアメリカへわたり、女子大学で学ぶ

満27歳(さい)

1892年の春(明治25年)

アメリカの女子大学で調べたカエルの卵(たまご)のことを、論文の第2節に書く言葉の札:カエルの卵の黒さ

論文の中に、1892年の春に書いた、とあります。論文が出たのは1894年です

満27歳(さい)

1892年8月(明治25年8月)

日本に帰り、華族(かぞく)女学校でまた教える

満33歳(さい)

1898年5月(明治31年5月)

女子高等師範(しはん)学校の先生も受け持つ

満33歳(さい)

1898年6月(明治31年6月)

アメリカのデンバーで開かれた女の人の大きな国際会議に、日本の女の人の代表として出て、話をする

満34歳(さい)

1899年8月(明治32年8月)

イギリスに招かれて約半年すごし、日本に帰る

満35歳(さい)

1900年4月(明治33年4月)

華族(かぞく)女学校と女子高等師範(しはん)学校の先生をやめる

満35歳(さい)

1900年7月26日(明治33年7月26日)

女の人が英語を学ぶ塾(じゅく)をつくり、知事にみとめられる

満35歳(さい)

1900年9月(明治33年9月)

東京の一番町に校舎を置いて、授業を始める

アメリカの支援(しえん)者が出した冊子には、1900年9月11日に15人で始めたとあります。10人とする資料もあります

満38歳(さい)

1903年3月(明治36年3月)

塾(じゅく)が、専門学校としてみとめられる

満40歳(さい)

1905年9月(明治38年9月)

塾(じゅく)の本科を卒業すると、そのまま中学校や女学校の英語の先生の資格を受けられるようになる

満43歳(さい)

1908年3月31日(明治41年3月31日)

塾(じゅく)の卒業式で、英語の式辞(しきじ)を読む言葉の札:卒業は、始まり・知識を得たい心と力・女の人も男の人も

『津田梅子(つだうめこ)文書』の英文を写した資料で、式辞(しきじ)の終わりにある日付です

満50歳(さい)

1915年11月(大正4年11月)

長く女子の教育につくしたことで、勲(くん)六等宝冠章(ほうかんしょう)を受ける

満51歳(さい)

1916年9月9日(大正5年9月9日)

女学校の生徒のための英語の教科書の第4巻に、もう1人の人と2人の名前で序(じょ)を書く言葉の札:英語と、広い教養・組に合わせて教える

序(じょ)の終わりにある日付です

満64歳(さい)

1929年8月16日(昭和4年8月16日)

亡くなる

年表のできごとは、1928年に文部省がまとめた書類と、国立国会図書館・国立公文書館・佐倉市の資料、アメリカで1872年に出た本などから取りました。言葉の行の本とページは、札を選ぶと上の「のっている所」に出ます。

やってみる

1問目 / 全3問

アメリカへ出発した1871年12月23日、梅子は満何歳?

ここからは、梅子(うめこ)の考え方を、本人の言葉から3つ、暮らしと家族を9つ見ていきます。

女の人も男の人も、力をのばす

女の人学ぶ男の人学ぶ+

1908年3月31日、満43歳(さい)の梅子(うめこ)は、塾(じゅく)の卒業式で、英語の式辞(しきじ)を読みました。

その中で、日本がいちばん高いところまで進むのは、女の人も男の人も、みんなが力をいっぱいにのばす機会を持てたときだ、と話しています。

アメリカの支援(しえん)者が出した冊子には、梅子(うめこ)は、女の人が高い教育を受ける力を持っていることを、5年で示したいと考えていた、とあります。

少ない人数で、一人ひとりに合わせて

少ない人数一人ひとり先生熱心

1900年に塾(じゅく)を開いたとき、梅子(うめこ)は、学校で大切なのは、熱心な先生と、学ぶ人の研究する心だ、と話した、と佐倉市の広報は伝えています。

本当の教育は、生徒一人ひとりに合わせてするもので、そのために少ない人数で教えたい、とも話したと伝えられています。

1916年に書いた英語の教科書の序(じょ)でも、言葉を教えるいちばんよい形は、力のある先生が、それぞれの組に合わせて教えることだ、と書いています。

まるごと育った女の人に

英語身につける広い見方まるごと+

塾(じゅく)を開いたとき、梅子(うめこ)は、英語を身につけることに加えて、広い見方を持つ「まったき女性」を育てたい、と話した、と佐倉市の広報は伝えています。

英語では、all-round woman(かたよらず、まるごと育った女の人)という言葉をよく使ったと伝えられています。

1908年の卒業式では、この学校がめざしたのは、知識を手わたすこと以上に、自分で知識を得たいと思う心と、その力を育てることだ、と話しています。

江戸(えど)に生まれる

1864年12月31日えど次女

1864年12月31日、梅子(うめこ)は、江戸(えど)で、次女として生まれました。

むかしのこよみでは元治元年12月3日で、今のこよみに直すと12月31日になります(国立天文台の暦日(れきじつ)データベース)。

このページの満年齢(まんねんれい)は、今のこよみの12月31日を、梅子(うめこ)の誕生日として数えています。

父と母と、おくりもの

父野菜と英語事典2冊

父の津田(つだ)仙(せん)は、英語を学び、1867年にアメリカへ行ったことのある人で、のちに、ブロッコリーやアスパラガス、いちごなどの西洋の野菜を日本に広めました。

アメリカで出た本には、梅子(うめこ)が持っていった絵入りの事典2冊に「My dear daughter Ume, from father」と、出発の4日前の1871年12月19日の日付が書かれていた、とあります。

同じ本には、母は、自分のしあわせよりも梅子(うめこ)のためを思って送り出した、と書かれています。

満6歳(さい)、いちばん年下

1871年満6さい船の上満7さい

1871年12月23日、満6歳(さい)の梅子(うめこ)は、岩倉使節団といっしょにアメリカへ出発しました。

国は、女子の教育も大切だと考えて、5人の女の子を送り出しました。梅子(うめこ)はその中でいちばん年下で、山川捨松(やまかわすてまつ)と永井繁子(ながいしげこ)と梅子(うめこ)の3人は、約10年アメリカで学びました(国立公文書館)。

12月31日の満7歳(さい)の誕生日は、海をわたる船の上でむかえ、1872年1月15日にサンフランシスコに着きました。

ランマンさんの家で

ワシントンランマンさん学校英語とピアノ

ワシントンに着いた梅子(うめこ)は、ジョージタウンに住むランマンさん夫妻の家にあずけられました。

学校で、英語やピアノ、のちにラテン語やフランス語、理科などを学びました。

ランマンさんは、梅子(うめこ)はとてもかしこく、教わったことをすぐに覚える、と本に書いています。

満17歳(さい)で日本へ、そして先生に

1882年日本へ女学校先生

1882年11月、満17歳(さい)の梅子(うめこ)は、日本に帰りました。

伊藤博文(いとうひろぶみ)の家で家庭教師をしたあと、1885年9月、華族(かぞく)女学校ができるときにえらばれて、先生になりました。

次の年には、教授(きょうじゅ)になっています。

アメリカで、カエルの卵(たまご)を調べる

カエルたまご論文1894年

1889年7月、満24歳(さい)の梅子(うめこ)は、先生のまま、ふたたびアメリカへわたり、女子大学で学びました。

大学で生物学などを学び、1891年から92年の冬に、カエルの卵(たまご)がどう育つかを調べました。

学んでいるあいだに、日本の女の人がアメリカで学べるようにするお金を集め始め、日本に帰るまでに集めることができました。

日本の女の人の代表として

デンバー1898年イギリス約半年

1898年6月、満33歳(さい)の梅子(うめこ)は、アメリカのデンバーで開かれた女の人の大きな国際会議に、日本の女の人の代表として出て、話をしました。

そのあと、イギリスの女の人たちに招かれて約半年イギリスですごし、大学で英文学や歴史の講義を聞きました。

イギリスでは、ナイチンゲールに会い、もらった花束を押(お)し花にして大切にした、と佐倉市の広報は伝えています。

英語の塾(じゅく)を開く

1900年9月英語の学校授業

1900年、満35歳(さい)の梅子(うめこ)は、華族(かぞく)女学校と女子高等師範(しはん)学校の先生をやめ、女の人が英語を学ぶ塾(じゅく)を開きました。

7月26日に知事にみとめられ、9月から、東京の一番町の校舎で授業を始めました。

アメリカの支援(しえん)者が出した冊子には、はじめの冬は、本も部屋もせまくて少ないなか、先生と生徒の熱心さで乗りこえた、と書かれています。

塾(じゅく)を育てる

専門学校1903年仮の校舎1923年+

1903年3月、塾(じゅく)は、専門学校としてみとめられました。

1905年9月からは、塾(じゅく)の本科を卒業すると、そのまま中学校や女学校の英語の先生の資格を受けられるようになりました。

1923年の大きな地震(じしん)と火事にあったときも、すぐに仮の校舎を建てて、授業を続けました(1928年に文部省がまとめた書類)。

出典(15件)

国立国会図書館「近代日本人の肖像」津田梅子(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立国会図書館「近代日本人の肖像」津田仙(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立国会図書館デジタルコレクション『女子大正りーだず』第4巻(1916年・津田梅子と熊本謙二郎の序)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立公文書館「時代を超えて輝く女性たち」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立公文書館デジタルアーカイブ 勲00668100(1928年の叙勲の書類の中の、文部省の功績調書)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立天文台「日本の暦日データベース」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

佐倉市「佐倉ゆかりの偉人・津田梅子~お札になった留学生」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

佐倉市「こうほう佐倉」2024年7月15日号(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

佐倉市「現代に生きる津田梅子からの学び」(講演の概要・2022年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

日本銀行「現在有効な銀行券」(2026-09-23 に取得した版)(新しいタブで開きます)

Charles Lanman『The Japanese in America』(1872年)の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

T. H. Morgan・Ume Tsuda「The Orientation of the Frog's Egg」(Quarterly Journal of Microscopical Science 35巻・1894年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

米国議会図書館 アメリカの支援者が出した冊子(1908年ころ)の画像(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

論文「Umeko Tsuda: a Pioneer in Higher Education for Women in Japan」(Espacio, Tiempo y Educación 7巻2号・2020年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

『津田梅子文書』(改訂版・1984年)の英文を写した資料にある式辞(1908年3月31日)

よくある質問

津田梅子は、何をした人?

満6歳でアメリカへ学びに行った5人の女の子の1人で、日本に帰ってからは女学校の先生になり、1900年に、女の人が英語を学ぶ塾を開いて、女の人の教育に力をつくしました。2024年から発行されている五千円札の肖像にもなっています。

津田梅子は、何歳で留学した?

1871年12月23日にアメリカへ出発したとき、満6歳でした。12月31日の満7歳の誕生日は、海をわたる船の上でむかえました。生まれたときを1つと数え、正月ごとに1つふやす数え年では、数え8歳です。

津田梅子は、なぜ留学したの?

国の役所(開拓使)の次官が、これからの人を育てるには女子の教育が大切だと考え、女の子をアメリカで学ばせることが決まったからです(国立公文書館)。佐倉市の広報は、アメリカへ行ったことのある父の仙にすすめられた、と伝えています。

津田梅子がお札になったのは、いつ?

2024年7月3日に発行が始まった五千円札に、肖像として使われています(日本銀行「現在有効な銀行券」)。

津田梅子の名言は?

このページでは、梅子が書いた論文の文、卒業式で読んだ英語の式辞、英語の教科書の序から、6つの言葉を選んでいます。たとえば1908年の卒業式では、日本がいちばん高いところまで進むのは、女の人も男の人も、みんなが力をいっぱいにのばす機会を持てたときだ、と話しています。

津田梅子の家族は?

父は、西洋の野菜を日本に広めた津田仙で、梅子は次女でした。アメリカへ持っていった家族の絵には、母のひざにいる妹もかかれていた、とアメリカで出た本にあります。