調べて分かる道具箱

手塚治虫の作品と年表 ── 何歳のとき?

作品を選ぶ

そのときの手塚(てづか)は

満23歳(さい)

いつ
1952年4月号から、月刊誌にのり始めた(昭和27年4月号)
どんな作品
ロボットの男の子アトムが主人公のマンガ。1968年3月号まで、月刊誌にのりつづけました
そのころ
この年の7月、手塚(てづか)は、医者の国家試験に合格して、仕事の場を東京にうつします
出どころ
手塚治虫の公式サイトの『鉄腕アトム』のページ(新しいタブで開きます)

アトムは、前の年の4月号から始まったマンガ『アトム大使』に、はじめて出てきました

年と日付: 手塚治虫の公式サイトの年譜と作品のページから取りました。国立公文書館の功績調書(1989年)とちがう所は、年表の行に書いています/年齢: 1928年11月3日生まれとして、このページで数えました。公式サイトの年譜は、その年の誕生日のあとの年齢で書いているので、誕生日より前のできごとは1つ多くなっています。雑誌は、号に書かれた月や日で数えています

手塚(てづか)の年表(13のできごとと、6つの作品)

手塚治虫の年表。年齢、西暦と和暦の日付、できごとと作品
年齢(ねんれい)いつ・何があった
満0歳(さい)

1928年11月3日(昭和3年11月3日)

今の大阪府豊中(とよなか)市で、長男として生まれ、治(おさむ)と名づけられる

満12歳(さい)

1941年4月(昭和16年4月)

大阪府立の北野中学に入る

満14歳(さい)

1943年1月15日(昭和18年1月15日)

昆虫(こんちゅう)の図かんの、第1集を作る

満16歳(さい)

1945年7月1日(昭和20年7月1日)

大阪帝国(ていこく)大学(今の大阪大学)の医学専門部に入る

満17歳(さい)

1946年1月(昭和21年1月)

4コママンガ『マアチャンの日記帳』が、新聞にのり始める

新聞にのり始めた月です

満18歳(さい)

1947年1月30日(昭和22年1月30日)

マンガの本『新宝島』が出る

本が出た日です

満19歳(さい)

1947年11月4日(昭和22年11月4日)

学校のかくし芸(げい)大会でピアノをひき、1等になる

満22歳(さい)

1951年3月24日(昭和26年3月24日)

大阪大学の医学専門部を卒業する

国の書類(1989年)には、「大阪大学医学部を卒業」とあります

満23歳(さい)

1952年4月(昭和27年4月)

『鉄腕(てつわん)アトム』が、月刊誌にのり始める

雑誌の号に書かれた月です

満23歳(さい)

1952年7月16日(昭和27年7月16日)

医者の国家試験に合格し、仕事の場を東京にうつす

満25歳(さい)

1954年7月(昭和29年7月)

『火の鳥』が、月刊誌にのり始める

雑誌の号に書かれた月です

満30歳(さい)

1959年10月4日(昭和34年10月4日)

結婚(けっこん)する

満32歳(さい)

1961年1月19日(昭和36年1月19日)

奈良県立医科大学で、医学博士になる

国の書類(1989年)には、医学博士になったのは昭和35年(1960年)とあります

満34歳(さい)

1963年1月1日(昭和38年1月1日)

テレビアニメ『鉄腕(てつわん)アトム』の放送が始まる

放送が始まった日です

満36歳(さい)

1965年10月6日(昭和40年10月6日)

カラーのテレビアニメ『ジャングル大帝(たいてい)』の放送が始まる

国の書類(1989年)は、はじめてのテレビのカラーアニメとしています

満45歳(さい)

1973年11月19日(昭和48年11月19日)

『ブラック・ジャック』が、週刊誌にのり始める

雑誌の号に書かれた日です

満51歳(さい)

1980年3月16日(昭和55年3月16日)

国際交流基金のマンガ大使としてアメリカへ行き、国連本部などで講演(こうえん)する

満55歳(さい)

1984年6月15日(昭和59年6月15日)

アニメ『ジャンピング』が、ザグレブの国際アニメーションフェスティバルでグランプリを受ける

満60歳(さい)

1989年2月9日(平成元年2月9日)

亡くなる

年表のできごとは、手塚治虫(てづかおさむ)の公式サイトの年譜(ねんぷ)と作品のページから取りました。国の書類(1989年)とちがう所は、行の下に書いています。作品の行の出どころは、札を選ぶと上に出ます。

やってみる

1問目 / 全3問

『鉄腕アトム』が月刊誌にのり始めた号の月、手塚治虫は満何歳?

ここからは、手塚(てづか)の考え方を3つの節、暮らしと家族を10の節で見ていきます。

命の大切さを、子どもたちに

命大切さ子ども伝える

公式サイトが紹介(しょうかい)する本『ガラスの地球を救え』(1989年)に、情報の多い時代の大人は、命の大切さを子どもたちに伝えていきたい、という考えがのっています。

宝塚(たからづか)市は、手塚(てづか)が作品をとおして「自然への愛と生命の尊(とうと)さ」を伝えてきた、と書いています。

『火の鳥』は、命をテーマに、1954年から1988年まで、雑誌をかえながらかきつづけたマンガです。

人も、ほかの生き物も、同じ命

人命生き物命

同じ本には、人の命も、ほかの生き物の命も、同じ命だ、という考えものっています。

人も、地球でいっしょにくらす生き物の仲間だ、と見る考えです。

子どものころから昆虫(こんちゅう)が好きで、ペンネームにも「虫」の字を入れた人です。

ほかの人の痛(いた)みに気づく、想像の力

ほかの人いたみ想像する力

同じ本には、想像する力を、ほかの人の痛(いた)みに気づくための大切な力とする考えものっています。

人を自然の一部と見る考えも、同じ本にあります。

豊中(とよなか)に生まれ、宝塚(たからづか)で育つ

1928年11月3日たからづか育つ

1928年11月3日、手塚(てづか)は、今の大阪府豊中(とよなか)市で、3人きょうだいの長男として生まれ、治(おさむ)と名づけられました。

1933年に、のちに宝塚(たからづか)市になる村へうつり、東京に出るまで宝塚(たからづか)でくらしました。

宝塚(たからづか)市によると、宝塚(たからづか)にいたのは約20年間です。

「治虫(おさむ)」という名前

治本名虫オサムシ+

1939年、手塚(てづか)は、昆虫(こんちゅう)の図かんで「オサムシ」という虫を知りました。

本名の「治(おさむ)」に「虫」をつけて、「治虫(おさむ)」というペンネームにしました。

このころから、昆虫(こんちゅう)採集(さいしゅう)を始めています。

昆虫(こんちゅう)の本を作る

虫の会中学で図かん第1集

1941年4月、満12歳(さい)の手塚(てづか)は、大阪府立の北野中学に入りました。

中学では、友だちと虫の会を作り、会の雑誌や、昆虫(こんちゅう)の図かんを何さつも作りました。

国の書類(1989年)には、幼いころから天文学や昆虫(こんちゅう)、映画、マンガに興味(きょうみ)を持っていた、と書かれています。

ピアノと舞台(ぶたい)

ピアノ1等学生の劇ぶたい+

医学専門部の学生のころ、手塚(てづか)は、学生の劇団(げきだん)に入って、舞台(ぶたい)に立ちました。

1947年11月4日には、学校のかくし芸(げい)大会でピアノをひいて、1等になりました。

アコーディオンやピアノがとくいで、よくひいていた、と公式サイトの年譜(ねんぷ)にあります。

医者の勉強と、医学博士

医学1945年医学博士1961年

1945年7月、満16歳(さい)の手塚(てづか)は、大阪帝国(ていこく)大学(今の大阪大学)の医学専門部に入り、1951年3月に卒業しました。

1952年7月に医者の国家試験に合格し、1961年1月には、タニシの細胞(さいぼう)を電子顕微鏡(けんびきょう)で調べた研究で、医学博士になりました。

医学の勉強をしながら、マンガもかきつづけていました。

満17歳(さい)で、マンガ家に

新聞4コママンガ家満17さい

1946年1月、満17歳(さい)の手塚(てづか)は、子ども向けの新聞に4コママンガをのせて、マンガ家になりました。

国の書類(1989年)によると、1947年から1953年までに、34本の書きおろしのマンガの本を出しました。

1950年11月号からは、東京の月刊誌に『ジャングル大帝(たいてい)』をのせ始めました。

東京のトキワ荘(そう)へ

東京1952年トキワそう1953年

1952年、手塚(てづか)は仕事の場を東京にうつし、八百屋さんの2階に下宿しました。

次の年には、東京のトキワ荘(そう)という建物にうつりました。

1982年12月1日、取りこわされる前のトキワ荘(そう)をたずね、天井の板をもらいに行きました。

マンガから、アニメへ

マンガ紙の上アニメテレビ

1958年、手塚(てづか)は、アニメ映画『西遊記』の原案と構成をうけもちました。公式サイトの年譜(ねんぷ)は、これをアニメの最初の仕事としています。

1963年1月1日には、テレビアニメ『鉄腕(てつわん)アトム』の放送が始まりました。公式サイトの年譜(ねんぷ)は、これを日本で作られたはじめての長いテレビアニメのシリーズとしています。

1965年10月6日には、カラーのテレビアニメ『ジャングル大帝(たいてい)』の放送が始まりました。

世界へ

日本マンガ世界20か国語

1980年3月、手塚(てづか)は、国際交流基金のマンガ大使としてアメリカへ行き、国連本部などで講演(こうえん)しました。

1984年6月には、アニメ『ジャンピング』が、ザグレブの国際アニメーションフェスティバルでグランプリを受けました。

宝塚(たからづか)市立手塚治虫(てづかおさむ)記念館には、約20か国語に訳(やく)された手塚(てづか)のマンガがあります。

家族

けっこん1959年子ども3人+

1959年10月4日、満30歳(さい)の手塚(てづか)は、結婚(けっこん)しました。

子どもは、男の子が1人、女の子が2人の、3人です。

1983年8月には家族で石垣島(いしがきじま)へ旅行し、1985年7月には、はじめて妻(つま)を外国での講演(こうえん)の旅に連れていきました。

出典(9件)

よくある質問

手塚治虫は、どんな人?

1928年に今の大阪府豊中市で生まれ、宝塚で育ったマンガ家です。医者の勉強をして医学博士にもなり、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『火の鳥』『ブラック・ジャック』などのマンガと、テレビアニメを作りました。

手塚治虫は、何歳で漫画家になった?

1946年1月、満17歳のときに、子ども向けの新聞にのせた4コママンガ『マアチャンの日記帳』で、マンガ家になりました。公式サイトの年譜は、その年の誕生日(11月3日)のあとの年齢で書いているので、1つ多くなっています。

手塚治虫は、医者だったの?

1952年7月に医者の国家試験に合格し、1961年1月に奈良県立医科大学で医学博士になりました。医学の勉強をしながら、マンガをかきつづけました。

「治虫」という名前の由来は?

本名は「治(おさむ)」です。1939年、昆虫の図かんで「オサムシ」という虫を知り、本名に「虫」をつけて「治虫」というペンネームにしました。

『鉄腕アトム』は、いつから?

マンガは、1952年4月号から1968年3月号まで、月刊誌にのりました。テレビアニメは、1963年1月1日に放送が始まりました。

手塚治虫と宝塚の関係は?

1933年に、のちに宝塚市になる村へうつり、宝塚市によると約20年間を宝塚ですごしました。宝塚市には市立の手塚治虫記念館があり、2000年に手塚治虫は宝塚市の名誉市民になりました。

手塚治虫の家族は?

3人きょうだいの長男でした。1959年に結婚し、子どもは男の子1人と女の子2人の3人です。