調べて分かる道具箱

太宰治の名言と年表 ── 何歳の作品?

太宰治の写真
名言を選ぶ

やさしく言いかえると

信じて待っている友だちがいる。だから走る

原文(今の字で書いています)

信じられているから走るのだ。
いつ
1940年6月15日に出た本に入った作品(昭和15年6月15日)・本が出たとき満30歳(さい)
どこで
小説『走れメロス』の終わり近く、約束の日に、待っている友のもとへ走りつづけるメロスの言葉
のっている所
『走れメロス』(今の全集の本文)
そのころ
このころの太宰は、東京の三鷹(みたか)の家で、妻と暮らしていました

この日に出た本に、ほかの作品といっしょに入っています。作品の終わりに、太宰は「古伝説と、シルレルの詩から。」と書いています

日付: 『富嶽百景』は、年を太宰が本の中に書いた注から、月を今の本の記録から、ほかの3つは1948年に出た本の著作目録(画像)から取りました/原文: 『富嶽百景』と『津軽』は国立国会図書館デジタルコレクションの本の画像から、『走れメロス』と「浦島さん」は今の全集の本文から写し、漢字は今の字にしました(『走れメロス』は、かなも今のかなの本から写しました)/肖像の出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

太宰の年表(17のできごとと、4つの言葉)

太宰治の年表。年齢、西暦と和暦の日付、できごとと言葉
年齢いつ・何があった
満0歳(さい)

1909年6月19日(明治42年6月19日)

青森県の金木(かなぎ)村(今の五所川原(ごしょがわら)市)で、10番目の子として生まれる。本名は津島修治(つしましゅうじ)

満13歳(さい)

1923年4月(大正12年4月)

青森中学校に入り、青森市で下宿する

満15歳(さい)

1925年3月(大正14年3月)

学校の雑誌に、はじめての作品「最後の太閤(たいこう)」をのせる

満16歳(さい)

1925年11月(大正14年11月)

友だちと雑誌を作り、自分で編集して出す

満17歳(さい)

1927年4月(昭和2年4月)

弘前(ひろさき)高等学校に入る

満20歳(さい)

1930年4月(昭和5年4月)

東京帝国大学の仏文科に入る

満20歳(さい)

1930年5月(昭和5年5月)

井伏鱒二(いぶせますじ)にはじめて会い、一生の先生とする

満23歳(さい)

1933年2月(昭和8年2月)

はじめて「太宰治」の名で作品を出す

1930年ごろからとする年譜もあります。1948年に出た年譜は、昭和5年のところに「この頃から」と書いています

満27歳(さい)

1936年6月25日(昭和11年6月25日)

はじめての本『晩年』を出す

満29歳(さい)

1938年9月(昭和13年9月)

山梨県の御坂峠(みさかとうげ)の茶屋に、2か月ほど泊まって書く

満29歳(さい)

1939年1月(昭和14年1月)

美知子(みちこ)と結婚し、甲府(こうふ)で暮らす

満29歳(さい)

1939年2月〜3月(昭和14年2月〜3月)

小説『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』が雑誌にのる

雑誌にのった月です

満30歳(さい)

1939年9月1日(昭和14年9月1日)

東京の三鷹(みたか)村に移る

満30歳(さい)

1940年6月15日(昭和15年6月15日)

小説『走れメロス』の入った本が出る

この作品が入った本が出た日です

満34歳(さい)

1944年5月12日〜6月5日(昭和19年5月12日〜6月5日)

ふるさとの津軽(つがる)をまわる旅をする

満35歳(さい)

1944年11月15日(昭和19年11月15日)

本『津軽(つがる)』が出る

本が出た日です

満36歳(さい)

1945年7月31日(昭和20年7月31日)

家族と、ふるさとの金木(かなぎ)の生家へ移る

満36歳(さい)

1945年10月25日(昭和20年10月25日)

本『お伽(とぎ)草紙(ぞうし)』が出る

本が出た日です

満37歳(さい)

1946年11月(昭和21年11月)

三鷹(みたか)の家へもどる

満38歳(さい)

1947年12月(昭和22年12月)

小説『斜陽』が本になって出る

満38歳(さい)

1948年6月(昭和23年6月)

東京で亡くなる

年表のできごとは、青森県近代文学館の資料「太宰治」などから取りました。言葉の行の本とページは、札を選ぶと上の「のっている所」に出ます。

やってみる

1問目 / 全3問

『走れメロス』の入った本が出た1940年6月15日、太宰は満何歳?

ここからは、太宰の作品の言葉を4つ、暮らしと家族を9つ見ていきます。

信じて、走る

友待っているメロス走る

1940年6月15日に出た本に入った小説『走れメロス』で、メロスは、自分を信じて待つ友のために、約束の日に向かって走りつづけます。

作品の終わりに、太宰は「古伝説と、シルレルの詩から。」と書いていて、昔から伝わる話と、シルレルという詩人の詩をもとにしたことが分かります。

勉強が残す「砂金」

勉強忘れても砂金底に残る

1942年に出た小説『正義と微笑』は、少年の日記の形で書かれています。

日記のはじめで、少年は「微笑もて正義を為(な)せ!」という言葉を作ります。にっこり笑いながら、正しいことをしよう、という意味です。

作中の英語の先生は、勉強したことを全部忘れても、その訓練の底に「一つかみの砂金」が残る、それが貴いのだ、と話します。

ふるさとの旅と「心の平和」

津軽の旅1944年たけ心の平和

1944年5月12日から6月5日まで、太宰は、ふるさとの津軽(つがる)をまわる旅をして、その年の11月15日に本『津軽(つがる)』を出しました。

旅の終わりに、小さいころ子守をしてくれた「たけ」と会えた場面で、太宰は「心の平和」を感じた、と書いています。

本の結びの近くには、「元気で行こう。」という言葉があります。

昔話を、語り直す

昔話4つ太宰語り直す

1945年10月25日に出た本『お伽(とぎ)草紙(ぞうし)』で、太宰は、よく知られた4つの昔話を、自分の言葉で語り直しました。

「浦島さん」では、亀が浦島太郎に、疑いながら右へ曲がるのも、信じて右へ曲がるのも、その運命は同じだ、と話します。

本が出たとき、太宰は満36歳(さい)でした。

金木(かなぎ)の大きな家に生まれる

1909年6月19日金木10番目の子

1909年6月19日、太宰は、青森県の金木(かなぎ)村の大地主の家に、10番目の子として生まれました。本名は津島修治(つしましゅうじ)です。

家は父が建てたばかりで、修治は、この家で生まれた最初の子でした。

父は県議会の議員で、のちに衆議院と貴族院の議員にもなりました。

生まれた家は、いま「斜陽館(しゃようかん)」

1階11の部屋2階8の部屋+

生まれた家は、父が1907年に建てた大きな家で、1階に11、2階に8の部屋があり、米蔵までヒバの木で造られています。

1996年3月に金木(かなぎ)町が買い取り、昔の様子にもどして、太宰治記念館「斜陽館(しゃようかん)」にしました。

2004年12月10日には、国の重要文化財になりました。

たけと、本の好きな子

たけ読み書き修治本が好き

大きな家では、兄や姉、祖母やおば、働く人たちもいっしょに、30人をこえる人が暮らしていました。

子守の「たけ」が早くから読み書きを教え、修治は、絵本や童話を聞いたり読んだりするのが好きな子になりました。

小学校では本を読むのが好きで、成績はいつも優秀でした。

中学生で、雑誌を作る

中学生1925年雑誌自分で編集

1923年4月、満13歳(さい)で青森中学校に入り、青森市で下宿して通いました。

中学1年のとき、井伏鱒二(いぶせますじ)の小説を読んで、心をひかれました。

1925年3月には学校の雑誌に、はじめての作品「最後の太閤(たいこう)」をのせ、11月には友だちと作った雑誌を、自分で編集して出しました。

大学と、先生の井伏鱒二(いぶせますじ)

大学1930年井伏一生の先生

1927年4月に弘前(ひろさき)高等学校に入り、1930年4月、満20歳(さい)で東京帝国大学の仏文科に入りました。

その年の5月、太宰は井伏鱒二(いぶせますじ)にはじめて会い、それから一生、先生としてしたいました。

「太宰治」の名と、はじめての本

津島修治本名太宰治1933年

1933年2月、津島修治(つしましゅうじ)は、はじめて「太宰治」の名で作品を出しました。

1935年には小説「逆行」が第1回の芥川賞(あくたがわしょう)の候補になり、1936年6月25日には、はじめての本『晩年』を出しました。

御坂峠(みさかとうげ)と、結婚

御坂峠1938年富士山小説の舞台

1938年9月、井伏(いぶせ)のすすめで、山梨県の御坂峠(みさかとうげ)の茶屋に2か月ほど泊まって書きました。ここから見た富士山が、小説『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』の舞台です。

この間に、井伏(いぶせ)の仲立ちで、山梨県の高等女学校の先生だった美知子(みちこ)と、甲府(こうふ)で見合いをしました。

1939年1月、満29歳(さい)の太宰は、美知子(みちこ)と結婚しました。

三鷹(みたか)の家と、子どもたち

東京1939年子どもたち生まれる+

1939年9月1日、太宰は、東京の三鷹(みたか)村に移りました。

よそで暮らした時期をのぞく7年半を三鷹(みたか)で過ごし、『走れメロス』や『斜陽』などの作品を書きました。

1941年6月に長女、1944年8月に長男、1947年3月に次女が生まれました。

ふるさと金木(かなぎ)と、いまの金木(かなぎ)

金木1945年銅像2009年

1945年7月31日から1946年11月まで、太宰は家族と金木(かなぎ)の生家で暮らし、離れの座敷で仕事をしました。

2009年6月19日、生まれて100年の日に、金木(かなぎ)の公園に、マント姿の太宰の銅像ができました。

2026年6月19日の斜陽館(しゃようかん)の催しの案内には、『走れメロス』の朗読と、金木(かなぎ)小学校の5年生の太宰歌留多(かるた)大会がのっていました。

出典(15件)

青森県近代文学館「太宰治」(PDF)(2026-10-18 に見た文)

五所川原市「太宰治について」(2026-10-18 に見た文)

五所川原市「太宰治記念館『斜陽館』」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

青森県「旧津島家住宅主屋、文庫蔵、中の蔵、米蔵、煉瓦塀」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

五所川原市「太宰治銅像建立 除幕式」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

五所川原市教育委員会「太宰治顕彰事業」の案内(2026年6月19日)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

中泊町「小説『津軽』の像記念館」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

三鷹市「広報みたか」2019年9月1日号(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立国会図書館デジタルコレクション『思ひ出』(1940年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立国会図書館デジタルコレクション『津輕』(1947年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立国会図書館デジタルコレクション『正義と微笑』(1947年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

国立国会図書館「近代日本人の肖像」太宰治(写真の4枚目)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)

『太宰治全集』3(文庫本・1988年)の本文(『走れメロス』)

『太宰治全集』8(1998年)の本文(『お伽草紙』の「浦島さん」)

「太宰治年譜」と著作目録(『太宰治』1948年)

よくある質問

太宰治は、どんな人?

1909年に青森県の金木村(今の五所川原市)で生まれ、東京帝国大学に入ったあと、井伏鱒二を一生の先生として小説を書きました。『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』などの作品があり、1939年からは東京の三鷹で家族と暮らしました。

太宰治の作品を、年の順に言うと?

年の順に、はじめての本『晩年』(1936年)、『富嶽百景』(1939年に雑誌にのる)、『走れメロス』(1940年)、『正義と微笑』(1942年)、『津軽』(1944年)、『お伽草紙』(1945年)、『斜陽』(1947年)、『人間失格』(1948年)などがあります。

『走れメロス』は、何年生の教科書にのっている?

2025年度から使われている中学校の国語の教科書では、調べた4種類とも、2年生の教科書にのっています。

『走れメロス』は、何をもとにした話?

作品の終わりに、太宰は「古伝説と、シルレルの詩から。」と書いています。昔から伝わる話と、シルレルという詩人の詩をもとにして書いた作品です。

「富士には月見草がよく似合う」は、どの作品の言葉?

太宰治の小説『富嶽百景』の言葉です。1938年9月から2か月ほど泊まった山梨県の御坂峠の茶屋から見た富士山が、この小説の舞台です。本の字は「富士には、月見草がよく似合ふ。」です。

太宰治の本名は?

津島修治です。1933年2月に、はじめて「太宰治」の名で作品を出しました。1930年ごろからとする年譜もあります。

太宰治の家族は?

父は県議会の議員で、のちに衆議院と貴族院の議員にもなりました。太宰は10番目の子です。1939年1月に美知子と結婚し、美知子との間に、1941年に長女、1944年に長男、1947年に次女が生まれました。