宮沢賢治の名言と年表 ── 何歳のとき?

やさしく言いかえると
雨にも風にも強いじょうぶな体で、いつもしずかにわらい、まわりの人のためにはたらく。そういう人に、わたしはなりたい
原文(今の字で書いています)
雨ニモマケズ 風ニモマケズ …… サウイフモノニ ワタシハナリタイ
- いつ
- 1931年11月3日に手帳に書いた(昭和6年11月3日)・満35歳
- どこで
- 手帳の言葉。ここには、はじめの2行と詩の結びの2行をのせています
- のっている所
- 手帳(今の全集の本文)
- そのころ
- この年の2月、賢治は、石灰の工場の技師になりました
書いた日は、花巻市の年譜の日付です
日付: 『春と修羅』は本の奥付と目次の画像、ほかは花巻市「宮沢賢治の年譜」(2026-10-18 に見た文)と花巻市の記者会見の資料から取りました/原文: 『春と修羅』は国立国会図書館デジタルコレクションの本の画像から、『注文の多い料理店』の序と手帳の言葉は今の全集の本文から写し、漢字は今の字にしました/肖像の出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
賢治の年表(19のできごとと、4つの言葉)
| 年齢 | いつ・何があった |
|---|---|
| 満0歳 | 1896年8月27日(明治29年8月27日) 今の花巻市で、長男として生まれる |
| 満12歳 | 1909年4月(明治42年4月) 県立盛岡中学校に入り、寄宿舎でくらす |
| 満13歳 | 1910年6月(明治43年6月) 岩手山に、はじめて登る |
| 満15歳 | 1912年5月(明治45年5月) 修学旅行で仙台の方へ行き、はじめて海を見る |
| 満18歳 | 1915年4月(大正4年4月) 盛岡高等農林学校に、1番の成績で入る |
| 満20歳 | 1917年4月(大正6年4月) 盛岡中学校に入った弟と、いっしょに下宿する |
| 満20歳 | 1917年7月(大正6年7月) 友だちと文集を作り、短歌や短い話をのせる |
| 満21歳 | 1918年3月(大正7年3月) 盛岡高等農林学校を卒業する |
| 満24歳 | 1921年1月(大正10年1月) 東京に出て、字を書き写したり直したりする仕事をしながら、童話を書く |
| 満24歳 | 1921年4月(大正10年4月) 東京に来た父と、関西へ旅行する |
| 満25歳 | 1921年12月(大正10年12月) 郡立の農学校(のちの県立花巻農学校)の先生になる |
| 満25歳 | 1921年12月(大正10年12月) 雑誌に童話「雪渡り」がのり、原稿料5円をもらう |
| 満25歳 | 1922年5月10日(大正11年5月10日) 詩「雲の信号」の日付(のちに本『春と修羅』に入る) 本の目次で、この詩についている日付です |
| 満26歳 | 1923年4月〜5月(大正12年4月〜5月) 新聞に、童話「やまなし」などをのせる |
| 満27歳 | 1924年4月20日(大正13年4月20日) 本『春と修羅』が出る(自分のお金で出した本) 本が出た日です |
| 満27歳 | 1924年5月(大正13年5月) 生徒たちと、北海道へ修学旅行に行く |
| 満28歳 | 1924年12月1日(大正13年12月1日) 童話の本『注文の多い料理店』が出る 本が出た日です |
| 満29歳 | 1926年3月31日(大正15年3月31日) 花巻農学校の先生をやめる |
| 満29歳 | 1926年4月1日(大正15年4月1日) 花巻の下根子桜の家で、ひとりでくらし始める |
| 満34歳 | 1931年2月(昭和6年2月) 石灰の工場の技師になり、石灰を広める仕事を受け持つ |
| 満35歳 | 1931年11月3日(昭和6年11月3日) 手帳に「雨ニモマケズ」を書く 手帳に書いた日です |
| 満35歳 | 1932年3月(昭和7年3月) 雑誌に、童話「グスコーブドリの伝記」をのせる |
| 満37歳 | 1933年9月21日(昭和8年9月21日) 亡くなる |
年表のできごとは、花巻市の「宮沢賢治の年譜」などから取りました。言葉の行の本とページは、札を選ぶと上の「のっている所」に出ます。
やってみる
1問目 / 全3問
ここからは、賢治の考え方を、本人の本と講義から3つ、暮らしと家族を9つ見ていきます。
見たままを書く「心象スケッチ」
1924年4月20日に出た本『春と修羅』の「序」で、賢治は、この本の詩を「心象スケッチ」とよんでいます。
「かげとひかりのひとくさりずつ/そのとおりの心象スケッチです」と書いています(序の4ページ)。
賢治は、いつも手帳と鉛筆を持って野山を歩き、心にうかんだことを、とても速く書きとめていた、と伝えられています。
風をたべ、朝の光をのむ
1924年12月1日に出た童話の本『注文の多い料理店』の「序」で、賢治は、わたしたちは「きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」と書いています。
そして、この本のお話は、どれも林や野原や線路のそばで、虹や月の光からもらってきたもの、とも書いています。
この本が出たとき賢治は満28歳で、生きているうちに出た童話の本は、この1冊です。
ずっと未完成であることが、そのまま完成
1926年の3月まで、賢治は、花巻農学校の中にあった学校で、農業をする人のための芸術の講義を受け持ち、その中身が、ほぼそのまま『農民芸術概論綱要』になりました。
その終わりのほうには「永久の未完成これ完成である」とあり、ずっと未完成であることが、そのまま完成だ、と書いています。
はじめのほうには、世界ぜんたいが幸せになって、はじめて一人ひとりの幸せがある、という考えも書いています。
花巻に生まれる
1896年8月27日、賢治は、今の花巻市で、長男として生まれました。
弟と妹が4人いて、賢治は5人きょうだいのいちばん上でした。
家は、質屋と古着屋をしていました。
先生のお話から、童話へ
小学3年生のとき、担任の先生が、「家なき子」などのお話を読んで聞かせてくれました。
のちに賢治は、自分の童話のもとには、先生のお話がある、と話しています。
石っこ賢さんと岩手山
小学4年生のころから、賢治は、石や植物や虫を集めて、標本を作るのに夢中になりました。
5年生のころには石集めに夢中になり、家の人から「石っこ賢さん」とよばれました。
1910年6月、満13歳ではじめて岩手山に登り、中学校と高等農林学校のころに、30回をこえて登りました。
盛岡で、農業と化学を学ぶ
1915年4月、満18歳の賢治は、盛岡高等農林学校に1番の成績で入りました。
ここで賢治は、化学を本格的に学び始めました。
次の年の3月には、特待生にえらばれて、授業料が免除になりました。
東京で、童話を書く
1921年1月、満24歳の賢治は、東京に出ました。
字を書き写したり直したりする仕事をしながら、たくさんの童話を書きました。
この年の12月には、雑誌にのった童話「雪渡り」で、原稿料5円をもらっています。
弟と妹、そして父
賢治の弟と妹は、トシ、シゲ、清六、クニの4人です。
1917年4月からは、盛岡中学校に入った弟の清六と、盛岡でいっしょに下宿しました。
1921年4月には、東京に来た父と、関西へ旅行しています。
農学校の先生
1921年12月、満25歳の賢治は、農学校の先生になりました。
校歌にあたる「精神歌」をはじめ、歌の詞をつぎつぎに作り、劇を書いて生徒たちが演じました。
1924年5月には、生徒たちと北海道へ修学旅行に行きました。
「イギリス海岸」と名づける
花巻の北上川の岸に出ている泥岩の層を見て、賢治は、イギリスの白い海岸を思いうかべ、「イギリス海岸」と名づけました。
1925年11月には、東北大学の先生をここに案内して、バタグルミの化石を採りました。
今は、国の名勝「イーハトーブの風景地」の1つです。
畑とチェロ
1926年4月1日、満29歳の賢治は、花巻の下根子桜の家で、ひとりでくらし始めました。
畑を開き、音楽の練習やレコードを聞く会をして、土曜日には近所の子どもたちに童話を読んで聞かせました。
12月には、チェロを持って東京へ行き、オルガンやチェロを練習しました。
出典(13件)
花巻市「宮沢賢治の年譜」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
花巻市「宮沢賢治について」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
花巻市「賢治と文学」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
花巻市「賢治と農民」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
花巻市「賢治と博物学」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
花巻市「イギリス海岸」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
花巻市「『注文の多い料理店』初版本(大正13年発刊)の寄贈について」(2024年2月20日の記者会見の資料)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
大阪市立科学館研究報告27(2017年)小野昌弘「化学本論と宮沢賢治」(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館デジタルコレクション『春と修羅』(1924年)(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
国立国会図書館「近代日本人の肖像」宮沢賢治(2026-10-18 に見た文)(新しいタブで開きます)
『【新】校本宮澤賢治全集』第13巻(上)覚書・手帳 本文篇(1997年)の本文(手帳の「雨ニモマケズ」と『農民芸術概論綱要』)
『【新】校本宮澤賢治全集』第11巻 童話Ⅳ 本文篇(1996年)の本文(「銀河鉄道の夜」)
『宮沢賢治全集』8(文庫本・1986年)の本文(『注文の多い料理店』の序)
よくある質問
宮沢賢治は、どんな人?
1896年に今の岩手県花巻市で生まれ、盛岡高等農林学校で農業を学んだあと、花巻の農学校の先生をしながら、詩や童話を書きました。生きているうちに出た本は、1924年の『春と修羅』と『注文の多い料理店』の2冊です。
宮沢賢治の代表作は?
年の順に、雑誌にのった童話「雪渡り」(1921年)、新聞にのった童話「やまなし」(1923年)、本『春と修羅』と童話の本『注文の多い料理店』(どちらも1924年)、童話「銀河鉄道の夜」(花巻市の年譜は、最初の原稿が1924年12月ごろにできたと推定しています)、手帳に書いた「雨ニモマケズ」(1931年)、雑誌にのった童話「グスコーブドリの伝記」(1932年)などがあります。
「雨ニモマケズ」は、いつ書いたもの?
花巻市の年譜に、1931年11月3日に手帳に書きとめた、とあります。このとき賢治は満35歳でした。
「ほんとうのさいわい」は、どの作品の言葉?
童話「銀河鉄道の夜」で、主人公のジョバンニが言う言葉です。原文では「ほんたうのさいはひ」と書きます。花巻市の年譜は、この童話の最初の原稿が1924年12月ごろにできた、と推定しています。
「世界がぜんたい幸福に…」は、だれの言葉?
宮沢賢治の言葉です。1926年の『農民芸術概論綱要』のはじめのほうにあり、世界ぜんたいが幸せになって、はじめて一人ひとりの幸せがある、という考えを書いています。
宮沢賢治の家族は?
父と母、それに弟と妹が4人いて、賢治は5人きょうだいのいちばん上でした。家は、質屋と古着屋をしていました。1917年には盛岡で弟と下宿し、1921年には父と関西へ旅行しています。