マルクスの名言 ── 何歳のときの言葉?
人の考え方(意識)を決めるのは、社会の中でのその人のあり方(存在)のほうだ。
Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.『経済学批判』(1859年)序文 V頁
満40歳1859年1月(序文の日付)
ロンドンで大英博物館に通い、1850年からやり直した経済の研究を、最初の本にまとめたころです。
原文は、「意識が存在を決める」という見方を、逆にして言い表した文です。
マルクスの年表(21の出来事)
満40歳
ロンドンで『経済学批判』の序文を書く
1859年1月・満40歳
満40歳のマルクスは、1858年5月5日から1859年5月4日まで
| 年齢 | いつ・何をした |
|---|---|
| 満0歳 | 1818年5月5日 トリーア(今のドイツの町)で生まれる |
| 満16〜17歳 | 1835年 トリーアのギムナジウムを終え、ボンの大学で学び始める このあと、ベルリンの大学に移って学びました |
| 満22〜23歳 | 1841年 エピクロスの哲学についての論文で、哲学の博士になる エピクロスは、古代ギリシャの哲学者です |
| 満24歳 | 1842年10月 ケルンの新聞の編集長になり、ケルンへ移る マルクス自身も1859年の序文で、1842年から43年に新聞の編集をしていたと書いています |
| 満24〜25歳 | 1843年 幼なじみのイェニー・フォン・ヴェストファーレンと、クロイツナハで結婚する 年は、1892年の辞典の項目の並び(この年の秋にパリへ移る前)と、ドイツの人名事典(6月)によります |
| 満25歳 | 1843年の秋 妻と2人でパリへ移る |
| 満26歳 | 1844年9月 エンゲルスがパリのマルクスを訪ね、2人の共同の仕事が始まる 1892年の辞典の項目によります。項目を書いたのは、エンゲルス本人です |
| 満26歳 | 1845年のはじめ フランスから追放され、ベルギーのブリュッセルへ移る 1859年の『経済学批判』の序文にも、マルクス自身の言葉で同じことが書かれています |
| 満29歳 | 1848年2月 エンゲルスと2人で書いた『共産党宣言』が、ロンドンで出る 表紙に「1848年2月」とロンドンの町の名が刷られています。2人で書いたことは、1859年の序文にマルクス自身が書いています |
| 満29〜30歳 | 1848年 ベルギーから追放され、パリへもどる |
| 満30〜31歳 | 1849年 ケルンで出していた新聞が終わり、プロイセンから追放される 新聞は1848年6月1日から出し、最後の号は1849年5月19日です |
| 満30〜31歳 | 1849年 パリにもどったあと、フランスを出て、ロンドンに移り住む ロンドンが、このあと一生の住まいになりました |
| 満31〜32歳 | 1850年 ロンドンで、経済の研究をはじめからやり直す 大英博物館に積み上げられた資料が、やり直すきっかけになったと、1859年の序文に書いています |
| 満33〜34歳 | 1852年 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』をニューヨークで出す 文は、1869年の第2版から写しています 言葉の札:歴史をつくる |
| 満40歳(1858年5月5日から)はここ | |
| 満40歳 | 1859年1月 ロンドンで『経済学批判』の序文を書く 序文の終わりの日付(1859年1月、ロンドン)です 言葉の札:考え方のもと |
| 満49歳 | 1867年7月25日 ロンドンで『資本論』第1巻の序文を書く 本は、同じ年にドイツのハンブルクで出ました 言葉の札:はじめはむずかしい・ハチと建築家 |
| 満50歳 | 1868年11月29日 エンゲルスが、毎年の暮らしのお金を助けると申し出る 「350ポンドで1年やっていけるか」と書いた手紙によります(2人の手紙を集めた本の第4巻) |
| 満53歳 | 1872年3月18日 フランス語版『資本論』を出す人に、手紙を書く 手紙は、フランス語版の本のはじめに、手書きのまま刷られています 言葉の札:学問の頂上 |
| 満63歳 | 1881年12月2日 妻のイェニーが亡くなる 日付は、1892年の辞典の項目と、娘エリナーの手紙によります |
| 満64歳 | 1883年1月 長女のイェニーが亡くなる 日は、1892年の辞典の項目では9日、娘エリナーの手紙では8日です |
| 満64歳 | 1883年3月14日 ロンドンで亡くなる 日付は、1892年の辞典の項目と、1896年の思い出の本によります |
原文は本と手紙のページの画像から写し、訳はこのページでつけました。満年齢は、1818年5月5日の誕生日から数えています
やってみる
1問目 / 全3問
マルクスが本に書いた考え方を5節、子どものころからの暮らしと家族を8節で読みます。考え方の節は、マルクスがどう考えたかを、本人の文で紹介します。どの節にも、もとになった本や資料の名前を書いています。
働くことは、自然を変え、自分も変える(労働)
1867年の『資本論』第1巻で、マルクスは、働くことを、人が腕や脚、頭や手を動かして、自然とのあいだで物をやりとりする営みと書きました(初版の第3章第1節・141頁)。
人は、外の自然にはたらきかけて変えるとき、同時に自分自身の性質も変える、と続けています。
仕事の終わりに出てくる結果は、はじめるときに、もう働く人の頭の中にあった、とも書いています(142頁)。
働くことが、本人から離れていく(疎外)
『資本論』第1巻の最後の章で、マルクスは、働く人自身の労働が、仕事に入る前から本人から疎外され(entfremdet)、資本を持つ人のものになっている、と書きました(初版の第6章第1節a・557頁)。
そのため労働は、仕事のあいだ、よその人のものになる品物へと、たえず形を変えていく、と続けます。
1848〜49年にケルンの新聞に書いた『賃労働と資本』では、働く人にとって暮らしが始まるのは、この働きが終わったところ、食卓や寝床などからだ、と書いています(1908年の版の18頁)。
調べることは、商品から始まる(商品)
『資本論』第1巻の最初の文は、資本をもとに物をつくるしくみが行きわたった社会では、豊かさが「巨大な商品の集まり」として現れ、1つ1つの商品がそのいちばん小さな形だ、というものです(初版1頁)。
だから、調べることは商品から始める、と続けます。
次の頁では、ある物が人の暮らしに役に立つことが、その物を「使用価値」にする、と書きました(2頁)。
お金がふえて、もどってくる(資本)
商品を売ってお金にし、そのお金で別の商品を買う流れを、マルクスは W―G―W(商品―お金―商品)と書きました(初版の第2章第1節・107頁)。
これに対して、お金で商品を買い、それを売ってお金にもどす G―W―G の流れは、もどってくるお金が、はじめより多いことに意味がある、と書いています(112頁)。
ふえた分を、マルクスは「剰余価値」(Mehrwerth)と呼び、この動きがお金を資本に変える、と書きました(112頁)。
社会の土台と、その上に建つもの(歴史の見方)
1859年の『経済学批判』の序文で、マルクスは、人が物をつくるときに結ぶ関係の全体が社会の経済の組み立てで、その「土台」の上に、法律や政治の「上の建物」が建つ、と書きました(V頁)。
マルクスは、これを、自分の研究の道しるべになった、大まかな結論だとしています。
1852年の本のはじめでは、人は自分の歴史を自分でつくるが、それは前の時代から受けついだ状況の中でのことだ、と書いています(1869年の第2版1頁)。
ここからは、子どものころと、おとなになってからの暮らしと家族です。娘エリナーの文と手紙、家族の友だちが1896年に出した思い出の本、エンゲルスが1892年の『国家学辞典』に書いた項目、2人の手紙を集めた本などから書いています。
トリーアの子ども ── 父が読んでくれた本
マルクスは、トリーアで、弁護士の父ハインリヒの子として生まれました(1892年の辞典の項目)。
娘エリナーが1883年に月刊誌に書いた文によると、父はフランスの作家ヴォルテールやラシーヌを、のちの妻イェニーの父はホメロスやシェークスピアを読んで聞かせ、その作家たちの中に、一生の好きな作家がいました。
いちばん古い友だちで遊び仲間だったのが、のちに妻になるイェニーと、エトガー・フォン・ヴェストファーレンでした。
いたずら好きの生徒から、哲学の博士へ
学校の仲間には、いつもいたずらをしたがるので好かれ、からかいの詩を書くのでこわがられた、とエリナーは書いています。
1835年からボンの大学、そのあとベルリンの大学で学び、父を喜ばせるために法律を、自分の楽しみのために歴史と哲学を学びました(1892年の辞典の項目・エリナーの文)。
1841年に、古代ギリシャの哲学者エピクロスの哲学についての論文で、哲学の博士になりました(1892年の辞典の項目)。
幼なじみのイェニーと結婚
1843年、マルクスはクロイツナハで、幼なじみのイェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚しました(1892年の辞典の項目・ドイツの人名事典)。
2人は、マルクスが大学に入ったころから婚約していました。
新婚の旅で、ライン川ぞいの町ビンゲンを訪ねたことを、娘エリナーが手紙に書いています。
一生の友だち、エンゲルス
1844年9月、フリードリヒ・エンゲルスが数日パリのマルクスを訪ね、そこから2人の共同の仕事が始まりました(1892年の辞典の項目。書いたのはエンゲルス本人です)。
1868年11月29日、エンゲルスは手紙で「350ポンドで1年やっていけるか」とたずね、毎年のお金の助けを申し出ました(2人の手紙を集めた本の第4巻116頁)。
次の日の返事で、マルクスは「きみの大きすぎる親切に、すっかりまいってしまった」と書いています(117頁)。
ロンドンの家と、新聞の仕事
ロンドンでは、メイトランド・パークの一軒家に移る前、ソーホーのディーン通りの、つつましい家の1つの階に住んでいました(家族の友だちの思い出の本)。
毎日のように通ったその友だちは、家には、いつも多くの人が出入りしていたと書いています。
1859年の序文でマルクスは、暮らしのお金をかせぐために、アメリカの新聞に記事を書く仕事が、もう8年になると書いています。
大英博物館の読書室で
マルクスは、大英博物館(イギリスの国の博物館)のりっぱな読書室に、毎日のように通いました(家族の友だちの思い出の本・46頁)。
仲間には「学べ、学べ」とよく大きな声で言い、ちゃんと学んでいるかも確かめる、厳しい先生だったと、その友だちは書いています(47頁)。
ゲルマン系とロマンス系の言葉はどれも楽に読め、そのうえ古いスラブの言葉、ロシア語、セルビア語も学びました(1892年の辞典の項目)。
子どもの中の子ども ── ハムステッド・ヒースの日曜
家族の友だちは、子どもたちと遊ぶマルクスを「子どもの中の子ども」と書き、ハムステッド・ヒースの野原では、娘を肩に乗せて「騎兵ごっこ」をしたと書いています(63頁)。
友だちによると、日曜にハムステッド・ヒースへ出かけるのが、みんなのいちばんの楽しみで、子どもたちは1週間その話をしていました(70頁)。
孫のジョニーは、マルクスを乗り合い馬車に見立てて肩に乗り、エンゲルスと友だちは馬の役にされました(63頁)。
3人の娘と、6人の子ども
子どもは6人で、そのうち3人はロンドンで子どものうちに亡くなりました(ドイツの人名事典・家族の友だちの思い出の本)。
娘のイェニー(1844年生まれ)、ラウラ(1845年生まれ)、エリナー(1855年生まれ)が、おとなになりました(ドイツの人名事典)。
家族の友だちは、妻イェニーのことを、自分にとって「母、友だち、打ち明け相手、相談相手」だったと書いています(66頁)。
出典(10件)
『資本論』第1巻(Das Kapital. Erster Band・1867年)初版の頁の画像(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
『経済学批判』(Zur Kritik der politischen Oekonomie・1859年)の頁の画像(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
フランス語版『資本論』(Le Capital)のはじめに刷られた、1872年3月18日の手紙の画像(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
『賃労働と資本』(Lohnarbeit und Kapital)1908年の版の18頁の画像(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
ドイツの人名事典『Neue Deutsche Biographie』第16巻(1990年)「Marx, Karl」(2026-10-11 に見た文)(新しいタブで開きます)
よくある質問
マルクスは何をした人?
1818年にトリーアで生まれ、1849年からロンドンで暮らした思想家・経済学者です。1867年の『資本論』第1巻などで、商品・お金・資本のしくみや、働くことについての考えを書きました。
マルクスの生年月日は?
1818年5月5日です。トリーアで、弁護士の父ハインリヒの子として生まれました。
マルクスの有名な言葉は、どの本に書いてある?
このページの5つの言葉は、1852年の『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』、1859年の『経済学批判』、1867年の『資本論』第1巻、1872年のフランス語版『資本論』の手紙に載ったものです。どれも、原文を、本と手紙のページの画像から写しています。
マルクスの「疎外」とは?
マルクスが使ったドイツ語 entfremdet(疎外された)の考え方で、人の労働が本人から離れていくことを言います。1867年の『資本論』第1巻で、マルクスは、働く人自身の労働が、仕事に入る前から本人から疎外され、仕事のあいだ、よその人のものになる品物へと形を変えていく、と書きました(初版557頁)。
マルクスの唯物史観とは?
社会の経済の組み立てを「土台」とみて、その上に法律や政治が建ち、人の考え方もそれに見合った形をとる、という歴史の見方です。マルクスは1859年の『経済学批判』の序文に、これを研究の道しるべになった結論として書きました。日本では、この見方を唯物史観とも呼びます。